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更級日記
日本語 BooksWhale エディション · Sugawara no Takasue’s Daughter
物語への憧れ、旅、結婚、信仰、老いを描く平安時代の日記文学。
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本の紹介
更級日記
少女時代の読書への夢から、旅と家庭生活、信仰と回想へ進む、平安期の女性の知的世界を伝える記録。
BooksWhale エディション
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更級日記
Sugawara no Takasue’s Daughter
更級日記 (有朋堂文庫) 菅原孝標女 康平二年 1059年 1 東路の道のはてよりも 東路の道のはてよりも、なほ奧つかたに生ひ 出 ( で ) たる人、いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思ひ始めけることにか、世中に物語といふもののあなるを、いかで見ばやと思ひつゝ、徒然なるひるまよひゐなどに、姉、繼母などやうの人々の、その物語かの物語、光源氏 〔源氏物語〕 のあるやうなど、ところ 〴 〵 語るを聞くに、いとゞゆかしさまされど、我が思ふまゝに、そらにいかでか覺え語らむ。いみじく心もとなき 〔覺束なき〕 まゝに、 等身 ( とうしん ) 〔人とひとしき身長の佛像〕 に藥師 佛 ( ぶつ ) を作りて、手洗などしてひとま 〔人の來ぬ間〕 に 密 ( みそか ) に入りつゝ、 京 ( みやこ ) にとくのぼせ給ひて、物語の多くさぶらふなる、あるかぎり見せ給へ、と身を捨てて 額 ( ぬか ) をつき 〔禮拜す〕 祈り申すほどに、十三になる年のぼらむとて、 九月 ( ながづき ) 三日かどでして、 今立 ( いまだち ) といふ所にうつる。年ごろ遊びなれつる所を、あらはに毀ちちらして立ちさわぎて、日の入際のいとすごく霧わたりたるに、車に乘るとてうち見やりたれば、ひとまには參りつゝ額をつきし、藥師佛の立ち給へるを、見捨て奉るかなしくて、人知れずうち泣かれぬ。
2 門出したる所は 門出したる所は、めぐり 〔垣根〕 などもなくて、かりそめの茅屋の蔀などもなし。簾かけ幕など引きたり。南ははるかに野のかた見やらる。
東西 ( ひがしにし ) は海ちかくていとおもしろし。夕霧たち渡りて、いみじうをかしけれ 〔面白し〕 ば、 朝寢 ( あさい ) などもせず、かた 〴 〵 見つゝ、こゝを立ちなむ事もあはれに悲しきに、おなじ月の十五日、雨かきくらし降るに、境を出でて、下野國 〔校本に、下野は下總國の誤なるべしとあり〕 いかたといふ所にとまりぬ。庵なども、浮きぬばかりに雨降りなどすれば、恐しくて寢も寢られず。野中に岡だちたる所に、たゞ木ぞ三つ立てる。その日は、雨にぬれたる物どもほし、國に立ちおくれたる人々待つとて、そこに日を暮しつ。
3 十七日のつとめて立つ 十七日のつとめて立つ。昔 下總 ( しもつふさ ) 國に、眞野の 長 ( をさ ) といふ人住みけり。引布を千むら萬むら織らせ、晒させけるが家の跡とて、ふかき川を舟にて渡る。むかしの門の柱のまだ殘りたるとて、おほきなる柱川の中に四つ立てり。人々歌よむを聞きて、心のうちに、 朽ちもせぬこの川柱のこらずばむかしのあとをいかで知らまし その夜は 黑戸濱 ( くろどのはま ) 〔上總國に在り〕 といふ所にとまる。片つ方は廣やかなる所の、砂子はる 〴 〵 と白きに、松原しげりて、月いみじうあかきに、風の音もいみじう心ぼそし。人々をかしがりて、歌よみなどするに、 まどろまじこよひならではいつか見むくろどの濱の秋の夜の月 4 その翌朝そこを立ちて その 翌朝 ( つとめて ) そこを立ちて、下總と武藏の境にて、あすだ川 〔隅田川の古名〕 といふ、在五中將 〔在原業平〕 の、いざこと問はむと詠みける渡なり。中將の集には隅田川とあり。かゞみのせ、まつさとの 渡 ( わたり ) の津にとまりて、夜一夜、舟にてかず 〳 〵 物などわたす。乳母なる人は、男などもなくなして 〔乳母の夫うせて〕 、さかひにて子産みたりしかば、離れて 別 ( べち ) にのぼる。いと戀しければ往かまほしく思ふに、 兄 ( せうと ) なる人 〔和泉守定義〕 抱きゐて往きたり。皆人はかりそめの假屋などいへど、風すさまじく引綿 〔綿を引被ること歟〕 などもしなどしたるに、これは男 〔乳母の夫〕 なども添はねば、いと手ばなちにあら 〳 〵 しげに、苫といふものを一重うち葺きたれば、月のこりなくさし入りたるに、 紅 ( くれなゐ ) の衣うへに著て、うちなやみて臥したる。月影さやうの人にはこよなく透きて、いと白く清げにて珍しと思ひて、かき撫でつゝうち泣くを、いとあはれに見捨てがたく思へど、いそぎ出で別るゝ心地、いと飽かずわりなし。
俤 ( おもかげ ) に覺えて悲しければ、月の興も覺えず 屈 ( くん ) じ臥しぬ。つとめて舟に車かき据ゑて渡して、あなたの岸に車ひき立てて、送りに來つる人々、これより皆かへりぬ。のぼるは 〔都に上る人は〕 宿 ( とまり ) などしていき別るゝ程、行くも留るも皆泣きなどす。をさな心地にもあはれに見ゆ。
5 今は武藏國になりぬ 今は武藏國になりぬ。殊にをかしき所も見えず。濱も 砂子 ( すなご ) 白くなどもなく、こひぢのやうにて、紫生ふと聞く野 〔武藏野〕 も、芦荻のみ高く生ひて、馬に乘りて弓もたるすゑ見えぬまで高く生ひ茂りて、中をわけ行くに、たけしばといふ寺あり、遙にいゝさらふ 〔一本「はゝさう」又一本「はゝさうふ」〕 といふ所の、廊のあとの 礎 ( いしずゑ ) などあり。「いかなる所ぞ」と問へば、「これは 古 ( いにしへ ) 竹芝といふさがなき 〔原本「さがなり」今一本に從ふ〕 國人のありけるを、 火燒屋 ( ひたきや ) の火たく衞士にさし奉りたりけるに、御前の庭を掃くとて、「などや苦しき目を見るらむ。わが國 〔武藏をさす〕 に七つ三つ作り 居 ( す ) ゑたる酒壺に、さしわたしたる 直柄 ( ひたえ ) の 瓢 ( ひさご ) の、南風吹けば北になびき、北風吹けば南になびき、西吹けば東になびき、東吹けば西になびくを見でかくてあるよ」と 獨 ( ひとり ) 打ちつぶやきけるを、その時帝の 御女 ( おんむすめ ) 、いみじうかしづかれ給ふ、只ひとり御簾の際に立ち出で給ひて、柱にかゝりて御覽ずるに、この男の斯くひとりごつを、いと哀にいかなる瓢のいかに靡くらむ、といみじうゆかしく思されければ、御簾を押しあげて、「あの 男 ( をのこ ) こち寄れ」と召しければ、かしこまりて、勾欄のつらに參りたりければ、「言ひつる事いま 一返 ( ひとかへり ) 、我にいひて聞かせよ」と仰せければ、酒壺のこと今ひとかへり申しければ、「我ゐて往きて見せよ。さいふやうあり」と仰せられければ、かしこく恐しく思ひけれど、さるべきにやありけむ、負ひ奉りて下るに、便なく人追ひて來らむ、と思ひて、その夜、瀬多橋のもとに此宮を居ゑ奉りて、瀬多橋を 一間 ( ひとま ) ばかり毀ちて、それを飛びこえて、此宮をかき負ひ奉りて、七日七夜といふに、武藏國に行き著きにけり。帝、后、 御子 ( みこ ) うせ給ひぬ、と思し惑ひもとめ給ふに、「武藏國の衞士 〔諸國より召されて内裡を守る武士〕 の男なむ、いとかうばしきものを頸に引きかけて、飛ぶやうに迯げける」と申し出でて、此男を尋ぬるに、なかりけり。論なくもとの國にこそ行くらめ、と 朝廷 ( おほやけ ) より使くだりて追ふに、瀬多橋 毀 ( こぼ ) れてえ行きやらず。
プレビュー章Part 2プレビュー
〈*以下→ 27_b〉 27B (物詣を僅にしても) 國にて物詣を僅にしても、はか 〴 〵 しく人の 樣 ( やう ) ならむとも念ぜられず。このごろの世の人は、十七八よりこそ經よみ行をもすれ。さること思ひがけられず、辛うじて思ひよる事は、いみじくやむごとなく、形有樣、物語にある光源氏などやうにもおはせむ人を、年に 一度 ( ひとたび ) にても通はし奉りて、浮舟の女君のやうに、山里にかくし居ゑられて、花、紅葉、月、雪をながめて、いと心細げにて、めでたからむ御文などを、時々待ち見などこそせめと許思ひつゞけ、あらましごと 〔豫想〕 にも覺えけり。
28 親となりなば 親となりなば 〔自ら母親となりなば〕 、いみじうやむごとなく、我が身もなりなむなど、たゞ行くへなき事を、打ちおもひすぐすに、親、からうじて遙にとほき 東 ( あづま ) になりて、「年比はいつしか思ふやうに、ちかき所にをりたらば、まづ胸あくばかり 傅 ( かしづ ) きたてて、率てくだりて、海山の景色も見せ、それをばさるものにて、我が身よりも高うもてなし傅きて見むとこそ思ひつれ。われも人も、宿世のつたなかりければ、あり 〳 〵 て 〔年月を經て〕 かく遙なる國になりにたり。
幼 ( をさな ) かりし時、東の國にゐて下りてだに、心地もいさゝかあしければ、これをや此國に見捨てて、惑はむとすらむと思ふ。人の國の恐しきにつけても、我が身ひとつならば、やすらかならましを、所せう 〔所狹く〕 ひきぐして、いはまほしき事もえ言はず、せまほしき事もえせずなどあるが、侘しうもある哉、と心をくだきしに、今は、まいて大人になりにたるを率てくだりて、わが命も知らず、 京 ( みやこ ) の中にてさすらへむは例の事。あづまの國、田舍人になりて惑はむは、いみじかるべし。京とても、たのもしう迎へ取りてむと思ふ 類 ( るゐ ) 親族 ( しぞく ) もなし。さりとて、わづかになりたる國 〔辛うじて得たる國守の官〕 を辭し申すべきにもあらねば、 京 ( みやこ ) にとゞめて、ながき別にて止みぬべきなり。京にもさるべき樣にもてなして、とゞめむとは思ひよる事にもあらず」と夜晝なげかるゝを聞く心地、花紅葉のおもひも皆忘れて、悲しくいみじく思ひなげかるれど、いかゞはせむ。
七月 ( ふみづき ) 十三日にくだる。五日、かねては見むもなか 〳 〵 なるべければ、うちにもいらず 〔一本「ゆにもいらず」〕 。まいてその日は立ちさわぎて時なりぬれば、今はとて簾をひきあげてうち見合せて、涙をほろ 〳 〵 と落して、やがて出でぬるを見送る心地、目もくれ惑ひて、やがて臥されぬるに、とまる男のおくりしてかへるに、 懷紙 ( ふところがみ ) に、 思ふことこころにかなふ身なりせば秋のわかれをふかく知らまし と許かゝれたるを、見えやられず、ことよろしき時こそ、腰をれかゝりたる事 〔腰折歌〕 も思ひつづけらるれ。ともかくも言ふべき方もおぼえぬまゝに、 かけてこそ思はざりしかこの世にてしばしも君にわかるべしとは とや書かれにけむ。いとゞ人目も見えず、淋しく心細くうち眺めつゝ、いづこばかりと明暮思ひやる。道の程も知りにしかば、はるかに戀しく、心ぼそき事かぎりなし。明くるより暮るゝまで、東の山際を詠めて 〈*ママ〉 過 ( すぐ ) す。
29 八月ばかりに太秦に籠るに 八月 ( はづき ) ばかりに太秦 〔廣隆寺〕 に籠るに、一條より詣づる道に、 男車 ( をとこぐるま ) 〔男の乘りし車〕 二つばかり引き立てて物へ行くに、諸共にくべき人待つなるべし、過ぎて行くに、隨身だつものをおこせて、 花見にゆくときみを見るかな といはせたれば、「斯る程のことは、いらへぬも便なし」などあれば、 千種なるこころならひに秋の野の と許いはせていき過ぎぬ。七日さぶらふ程も、たゞ東路のみ思ひやられてよしなし。とかくして、離れて 〔一本になし〕 たひらかにあひ見せ給へと申せば、佛もあはれと聞き入れさせ給ひけむかし。冬になりて、日ぐらし雨ふりくらいたる夜、雲かへる風烈しううち吹きて、空晴れて、月いみじうあかうなりて、軒ちかき荻の、いみじく風にふかれて碎けまどふがいと哀にて、 秋をいかにおもひ出づらむ冬ふかみあらしにまどふ荻の枯葉も 〔一本「枯葉は」〕 30 東より人きたる 東より人きたる。
神拜 〔國中の神社に國守の參詣すること〕 といふわざして、國の中ありきしに、水をかしく流れたる野のはる 〴 〵 とあるに、森のあるをかしき所かな、みせて、と 先 ( まづ ) 思ひ出でて、こゝは 何處 ( いづこ ) とかいふ、と問へば、こしのび 〔子忍〕 の森となむ申す、と答へたりしが、身によそへられて、いみじく悲しかりしかば、馬よりおりて、そこに二時なむながめられし。
とどめおきて我がごと物や思ひけむ見るに悲しきこしのびの森 となむ覺えし。
とあるを、見る心地いへば更なり。返事に、 こしのびを聞くにつけてもとどめおきし秩父の山のつらき東路 31 かうで徒然とながむるに かうで徒然とながむるに、など物まうでもせざりけむ。母いみじかりし古代の人にて、「初瀬にはあなおそろし、奈良坂にて人にとられなば如何せむ。石山、關山越えていとおそろし。鞍馬は、さる山ゐて出でむいとおそろしや。親のぼりて兎も角も」と、さしはなちたる人のやうに煩はしがりて、僅に清水にゐて籠りたり。それにも例のくせは、まことしかンべい事もおもひ申されず、彼岸のほどにて、いみじう騒しう、おそろしきまで覺えて、うちまどろみ入りたるに、 御帳 ( みちゃう ) のかたの 犬防 ( いぬふせぎ ) 〔佛壇の前なる格子〕 の 中 ( うち ) に、あをき織物の衣を著て、錦を 頭 ( かしら ) にもかづき、足にもはいたる僧の別當とおぼしきが寄り來て、行先のあはれならむも知らず。さもよしなし事をのみとうちむづかりて、御帳の内に入りぬと見ても、うち驚きても、かくなむ見えつるとも語らず、心に思ひとゞめてまかでぬ。
32 幅一尺の鏡を鑄させて 幅一尺の鏡を鑄させて、え率て參らせぬかはりにとて、僧をいだしたてて、初瀬に詣でさすめり。三日さぶらひて、この人 〔孝標の女をさす〕 のあンべからむ樣 〔未來の有樣〕 、夢に見せ給へなどいひて、詣でさするなンめり。そのほどは 精進 ( さうじん ) せさす。この僧かへりて、「夢をだに見でまかでなむが、本意なき事、いかゞ歸りても申すべきといみじう額づき行ひて、寢たりしかば、御帳の方よりいみじうけだかう清げにおはする女の、麗しうさうぞき給へるが、奉りし鏡をひきさげて、「この鏡には、文やそひたりし」と問ひ給へば、かしこまりて、「 文 ( ふみ ) もさぶらはざりき。この鏡をなむ奉れと侍りし」と 答 ( こた ) へ奉れば、「あやしかりける事かな。文そふべきものを」とて、「この鏡を、こなたに移れる影を見よ。これを見れば、あはれに悲しきぞ」とて、さめ 〴 〵 と泣き給ふを見れば、ふしまろび泣き歎きたる影うつれり。『この影を見れば、いみじうかなしな。これ見よ』とて、今かたつ方に移れる影を見せ給へば、御簾ども青やかに、几帳おし出でたる下より、いろ 〳 〵 の衣こぼれ出でて、梅櫻咲きたるに、鶯木づたひ鳴きたるを見せて、『これを見るは嬉し』など、宣ふとなむ見えし」と語るなり。いかに見えけるぞとだに耳もとゞめず、ものはかなき心にも、つねに天照大神を念じ申せといふ人あり。いづくにおはします神佛にかは 〔「かは」は反語にあらず、「は」は感動詞〕 など、さはいへど、やう 〳 〵 思ひわかれて、人に問へば、「神におはします。伊勢におはします。紀の國に、きのこくそうと申すは、この 御 ( おん ) 神なり。さては内侍所に 皇神 ( すべらがみ ) となむおはします 〈*ママ〉 」といふ。伊勢國までは、思ひかくべきにもあらざンなり。内侍所にもいかでかは參り拜み奉らむ。空の光を念じ申すべきにこそはなど、うきて覺ゆ。
親族 ( しぞく ) なる人尼になりて、 修學院 ( すがくゐん ) に入りぬるに、冬の比、 なみださへ降りはへつつぞ思ひやるあらし吹くらむ冬のやま里 かへし、 わけて問ふ心のほどの見ゆるかな木かげをぐらき夏のしげりを 33A 東にくだりし親 東にくだりし親、辛じてのぼりて、西山なる所におちつきたれば、そこに皆渡りて見るに、いみじう嬉しきに、月のあかき夜 〈*原文「、」〉 ひと夜物語などして、 かかる夜もありけるものを限とてきみにわかれし秋はいかにぞ といひたれば、いみじく泣きて、 おもふことかなはずなどと 〔一本「かなはずのみと」〕 いとひこし命のほども今ぞうれしき これぞ別の門出と、言ひ知らせしほどの悲しさよりは、たひらかに待ちつけたる嬉しさも限なけれど、人のうへにても見しに、老い衰へて、世に出でまじらひしは、 〈*以下→ 33_b〉 33B (をこがましく見えしかば) をこがましく見えしかば、我はかくてとぢ籠りぬべきぞ」とのみ殘なげに世を思ひいふめるに、心ぼそさ堪へず。東は野のはる 〴 〵 とあるに、東の山際は、 比叡山 ( ひえのやま ) よりして稻荷などいふ山まで、あらはに見えわたり、西は 雙岡 ( ならびのをか ) の松風、いと耳ちかう心ぼそく聞えて、内にはいたゞきのもとまで、田といふもののひた 〔鳴子板〕 引きならす音など、田舍の心地していとをかしきに、月のあかき夜などはいとおもしろきを、眺めあかし暮すに、知りたりし人、里遠くなりて音もせず。
プレビュー章Part 3プレビュー
いかにいひ何にたとへてかたらまし秋のゆふべのすみよしの浦 と見つゝ、綱手ひき過ぐるほど、顧みのみせられて飽かず覺ゆ。冬になりてのぼるに、大江といふ浦に、舟に乘りたるに、その夜雨風、岩も動くばかり降りふゞきて 〔一本に「降りつゞきて」〕 、神 〔雷〕 さへなりて轟くに、浪の立ち來る音なひ、風の吹き惑ひたるさま、恐しげなること命かぎりつと思ひまどはる。岡のうへに、舟を引きあげて夜をあかす。雨はやみたれど、風なほ吹きて舟いださず。ゆくへもなき岡のうへに、五六日を過す。辛うじて風いさゝかやみたる程、舟の簾卷きあげて見渡せば、夕潮たゞみちに滿ちくるさまとりもあへず、入江の田鶴の聲をしまぬも、をかしく見ゆ。國の人々あつまり來て、「その夜この浦を出でさせ給ひて、石津に著かせ給へらましかば、やがてこの御舟なごりなくなり 〔難船して〕 なまし」などいふ。心ぼそう聞ゆ。
荒るる海に風よりさきに舟出していしづの浪と消えなましかば 48 世中にとにかくに 世中に、とにかくに心のみ盡すに、宮仕とても、ことばひとすぢに、仕う奉りつゞかばや、いかゞあらむ。時々立ち出でば、何なるべくもなかンめり。年はやゝさだ過ぎ 〔女の盛を過ぎ〕 行くに、わか 〳 〵 しき 樣 ( やう ) なるも、つきなう覺えなげかるゝうちに、身の病いと重くなりて、心にまかせて物語などせし事も、得せずなりたれば、わくらば 〔たま 〳 〵 〕 の立ち出でも絶えて、長らふべき心地もせぬまゝに、幼き人々を、いかにも 〳 〵 我があらむ世に見おく事もがな、とふしおき思ひなげき、頼む人のよろこびの程を、心もとなく待ち歎かるゝに、秋になりて 〔天喜五年の秋になりて〕 待ちいでたる樣なれど、思ひしにはあらず、いと本意なく口惜し。親のをりより立ち歸りつゝ見し東路よりは、近きやうに聞ゆれば、いかゞはせむにて、程もなく下るべき事ども急ぐに、門出は、 女 ( むすめ ) なる人のあたらしく渡りたる所に、 八月 ( はづき ) 十餘日 ( とをかあまり ) にす。
後 ( のち ) の事は知らず、そのほどの有樣は物さわがしきまで、人おほくいきほひたり。
廿七日にくだるに、 男 ( をとこ ) なる 〔仲俊〕 は添ひて下る。
紅 ( くれなゐ ) のうちたるに、萩のあを 〔萩の襖〕 、紫苑の織物の指貫著て、太刀佩きて、しりに立ちてあゆみ出づるを、それも 〔仲俊をさしていふ〕 織物のあをに、緋色の指貫、狩衣 〔一本なし〕 著て、廊のほどにて馬に乘りぬ。のゝしり滿ちてくだりぬる後、こよなう徒然なれど、いといたう遠きほどならずと聞けば、さき 〴 〵 の樣に、心ぼそくなどは覺えであるに、おくりの人々、又の日かへりて、「いみじうきら 〳 〵 しうて下りぬ」などいひて、「この曉に、いみじく大なる人魂の立ちて、京ざまへなむ來ぬる」と語れど、供の人などのにこそは、と思ふ。ゆゝしきさまに思ひだによらむやは。今はいかで、このこの若き人々、おとなびさせむと思ふより外の事なきに、かへる年の 四月 ( うづき ) にのぼり來て、夏秋も過ぎぬ。
九月 ( ながつき ) 二十五日よりわづらひ出でて、十月五日 〔通俊朝臣の卒せられし康平五年〕 〈*康平元年〉 に、夢のやうに見ないて思ふ心地、世中にまた 類 ( たぐひ ) ある事ともおぼえず。初瀬に鏡たてまつりしに、伏しまろび泣きたる影の見えけむは、これにこそはありけれ。嬉しげなりけむ影は、きし方もなかりき。いま行末はあンべいやうもなし。廿三日、はかなくも煙になす 〔火葬にす〕 に、去年の秋、いみじくしたて傅かれて、うちそひて下りしを見やりしを、いとくろき衣のうへに、ゆゝしげなる物を著て、車のともに泣く 〳 〵 歩み出で行くを、見いだしておもひ出づる心地、すべてたとへむ方なきまゝに、やがて夢路に惑ひてぞ思ふに、その 〈*そを?〉 人やみにけむかし。昔よりよしなき物語、歌の事をのみ心にしめで、よるひる思ひて行ひをせましかば、いとかゝる夢の世をば見ずもやあらまし。初瀬にてまへの度は、稻荷より賜ふしるしの杉よとて、なげ出でられしを、いでしまゝに稻荷に詣でたらましかば、かゝらずやあらまし。としごろ天照大神を念じ奉れと見ゆる夢は、人の 御 ( おん ) 乳母として内裏わたりにあり、帝、 后 ( きさい ) の 御蔭 ( おんかげ ) に、かくるべきさまをのみ、夢ときもあはせしかども、その事は、ひとつかなはで止みぬ。たゞ悲しげなりと見し、鏡のかげのみ違はぬ、あはれに心憂し。かうのみ心に物のかなふ方なうて止みぬる人なれば、功徳 〔後生菩提の功徳〕 もつくらずなどしてたゞよふ。
49 さすがに命は さすがに命は、憂きにも絶えずながらふめれど、後の世もおもふに叶はずぞあらむかしとぞうしろめたきに、頼むことひとつぞありける。天喜三年、十月十三日の夜の夢に、居たる所の 屋 ( や ) のつまの庭に、阿彌陀佛立ち給へり。さだかには見え給はず。霧一重へだたれるやうに透きて見え給ふを、せめてたえまに見奉れば、蓮花の座の土をあがりたる高さ三四 尺 ( さく ) 、佛の 御丈 ( みたけ ) 六尺ばかりにて、金色にひかりかゞやき給ひて、 御 ( おん ) 手片つ方をばひろげたる樣に、いま片つ方にはいんを作り 〔印を結ぶこと〕 給ひたるを、こと人の目には見つけ奉らず。我一人見奉りて、さすがにいみじくけ恐しければ、簾のもと近くよりてもえ見奉らねば、佛、「さは此度はかへりて、後むかへに來む」と宣ふ聲、我が耳ひとつに聞き居て、人はえ聞きつけずと見るに、うち驚きたれば、十四日なり。この夢ばかりぞ、後の 頼 ( たのみ ) としけるを、 〈*旺文社文庫版は「しける。」で改段。〉 50 いもとなどひと所にて いもとなどひと所にて朝夕見るに、かうあはれに悲しきことの後は、所々になりなどして、誰も見ゆることかたうあるに、いと闇い夜、六波羅にあンなる 甥 ( をひ ) の 來 ( きた ) るに、珍しうおぼえて、 月も出でで 〔なき夫の事をいふ〕 やみにくれたる姨捨に何とてこよひたづね來つらむ とぞいはれにける。懇に語らふ人の、かうで後おとづれぬに、 今は世にあらじものとや思ふらむあはれ泣く泣く猶こそはふれ 十月ばかり、月のいみじうあかきを、泣く 〳 〵 眺めて、 ひまもなき涙にくもるこころにもあかしと見ゆる月のかげかな 51 年月は過ぎかはり行けど 年月 ( としつき ) は過ぎかはり行けど、夢のやうなりしほどを思ひ出づれば、心地もまどひ、目もかきくらすやうなれば、その程のことは、又さだかにも覺えず。人々は皆 外 ( ほか ) にすみあかれ 〈*原文「あがれ」〉 て、故郷にひとり、いみじう心ぼそく悲しくて、眺めあかし侘びて、久しうおとづれぬ人に、 茂りゆくよもぎが露にそぼち 〈*原文「そほぢ」〉 つつ人に問はれぬ音をのみぞ泣く 尼なる人なり。
世のつねの宿のよもぎに思ひやれそむき果てたる庭のくさむら 更科日記 終 の期日( 回復期日 を参照)の時点で が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域で の状態にあります。
目次
このエディションの内容
- 01Part 1
- 02Part 2
- 03Part 3