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Letteratura

明暗

Edizione BooksWhale in giapponese di Natsume Sōseki

夫婦の距離、疑念、欲望と自尊心を、未完の近代心理小説として描く夏目漱石最後の作品。

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Introduzione al libro

明暗

『明暗』は、結婚生活の表面に生じた小さな亀裂から、夫婦の駆け引き、嫉妬、経済的不安、近代的な自我を浮かび上がらせます。未完でありながら、夏目漱石の心理描写と会話の緊張を最も濃く読める作品の一つです。

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夏目漱石は1916年に没し、『明暗』は1916年に刊行されました。作者の没年と作品の初刊年は、この日本語原文版の公版性を判断する根拠になります。

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明暗

Natsume Sōseki

明暗

夏目漱石

Capitolo in anteprima一Anteprima

医者は探(さぐ)りを入れた後(あと)で、手術台の上から津田(つだ)を下(おろ)した。

「やっぱり穴が腸まで続いているんでした。この前(まえ)探(さぐ)った時は、途中に瘢痕(はんこん)の隆起(りゅうき)があったので、ついそこが行(い)きどまりだとばかり思って、ああ云ったんですが、今日(きょう)疎通を好くするために、そいつをがりがり掻(か)き落して見ると、まだ奥があるんです」

「そうしてそれが腸まで続いているんですか」

「そうです。五分ぐらいだと思っていたのが約一寸ほどあるんです」

津田の顔には苦笑の裡(うち)に淡く盛り上げられた失望の色が見えた。医者は白いだぶだぶした上着の前に両手を組み合わせたまま、ちょっと首を傾けた。その様子が「御気の毒ですが事実だから仕方がありません。医者は自分の職業に対して虚言(うそ)を吐(つ)く訳に行かないんですから」という意味に受取れた。

津田は無言のまま帯を締(し)め直して、椅子(いす)の背に投げ掛けられた袴(はかま)を取り上げながらまた医者の方を向いた。

「腸まで続いているとすると、癒(なお)りっこないんですか」

「そんな事はありません」

医者は活溌(かっぱつ)にまた無雑作(むぞうさ)に津田の言葉を否定した。併(あわ)せて彼の気分をも否定するごとくに。

「ただ今(いま)までのように穴の掃除ばかりしていては駄目なんです。それじゃいつまで経(た)っても肉の上(あが)りこはないから、今度は治療法を変えて根本的の手術を一思(ひとおも)いにやるよりほかに仕方がありませんね」

「根本的の治療と云うと」

「切開(せっかい)です。切開して穴と腸といっしょにしてしまうんです。すると天然自然(てんねんしぜん)割(さ)かれた面(めん)の両側が癒着(ゆちゃく)して来ますから、まあ本式に癒るようになるんです」

津田は黙って点頭(うなず)いた。彼の傍(そば)には南側の窓下に据(す)えられた洋卓(テーブル)の上に一台の顕微鏡(けんびきょう)が載っていた。医者と懇意な彼は先刻(さっき)診察所へ這入(はい)った時、物珍らしさに、それを覗(のぞ)かせて貰(もら)ったのである。その時八百五十倍の鏡の底に映ったものは、まるで図に撮影(と)ったように鮮(あざ)やかに見える着色の葡萄状(ぶどうじょう)の細菌であった。

津田は袴を穿(は)いてしまって、その洋卓の上に置いた皮の紙入を取り上げた時、ふとこの細菌の事を思い出した。すると連想が急に彼の胸を不安にした。診察所を出るべく紙入を懐(ふところ)に収めた彼はすでに出ようとしてまた躊躇(ちゅうちょ)した。

「もし結核性のものだとすると、たとい今おっしゃったような根本的な手術をして、細い溝(みぞ)を全部腸の方へ切り開いてしまっても癒らないんでしょう」

「結核性なら駄目です。それからそれへと穴を掘って奥の方へ進んで行くんだから、口元だけ治療したって役にゃ立ちません」

津田は思わず眉(まゆ)を寄せた。

「私(わたし)のは結核性じゃないんですか」

「いえ、結核性じゃありません」

津田は相手の言葉にどれほどの真実さがあるかを確かめようとして、ちょっと眼を医者の上に据(す)えた。医者は動かなかった。

「どうしてそれが分るんですか。ただの診察で分るんですか」

「ええ。診察(み)た様子で分ります」

その時看護婦が津田の後(あと)に廻った患者の名前を室(へや)の出口に立って呼んだ。待ち構えていたその患者はすぐ津田の背後に現われた。津田は早く退却しなければならなくなった。

「じゃいつその根本的手術をやっていただけるでしょう」

「いつでも。あなたの御都合の好い時でようござんす」

津田は自分の都合を善く考えてから日取をきめる事にして室外に出た。

Capitolo in anteprima二Anteprima

電車に乗った時の彼の気分は沈んでいた。身動きのならないほど客の込み合う中で、彼は釣革(つりかわ)にぶら下りながらただ自分の事ばかり考えた。去年の疼痛(とうつう)がありありと記憶の舞台(ぶたい)に上(のぼ)った。白いベッドの上に横(よこた)えられた無残(みじめ)な自分の姿が明かに見えた。鎖を切って逃げる事ができない時に犬の出すような自分の唸(うな)り声が判然(はっきり)聴えた。それから冷たい刃物の光と、それが互に触れ合う音と、最後に突然両方の肺臓から一度に空気を搾(しぼ)り出(だ)すような恐ろしい力の圧迫と、圧(お)された空気が圧されながらに収縮する事ができないために起るとしか思われない劇(はげ)しい苦痛とが彼の記憶を襲(おそ)った。

彼は不愉快になった。急に気を換(か)えて自分の周囲を眺めた。周囲のものは彼の存在にすら気がつかずにみんな澄ましていた。彼はまた考えつづけた。

「どうしてあんな苦しい目に会ったんだろう」

荒川堤(あらかわづつみ)へ花見に行った帰り途から何らの予告なしに突発した当時の疼痛(とうつう)について、彼は全くの盲目漢(めくら)であった。その原因はあらゆる想像のほかにあった。不思議というよりもむしろ恐ろしかった。

「この肉体はいつ何時(なんどき)どんな変(へん)に会わないとも限らない。それどころか、今現(げん)にどんな変がこの肉体のうちに起りつつあるかも知れない。そうして自分は全く知らずにいる。恐ろしい事だ」

ここまで働らいて来た彼の頭はそこでとまる事ができなかった。どっと後(うしろ)から突き落すような勢で、彼を前の方に押しやった。突然彼は心の中(うち)で叫んだ。

「精神界も同じ事だ。精神界も全く同じ事だ。いつどう変るか分らない。そうしてその変るところをおれは見たのだ」

彼は思わず唇(くちびる)を固く結んで、あたかも自尊心を傷(きずつ)けられた人のような眼を彼の周囲に向けた。けれども彼の心のうちに何事が起りつつあるかをまるで知らない車中の乗客は、彼の眼遣(めづかい)に対して少しの注意も払わなかった。

彼の頭は彼の乗っている電車のように、自分自身の軌道(レール)の上を走って前へ進むだけであった。彼は二三日(にさんち)前ある友達から聞いたポアンカレーの話を思い出した。彼のために「偶然」の意味を説明してくれたその友達は彼に向ってこう云った。

「だから君、普通世間で偶然だ偶然だという、いわゆる偶然の出来事というのは、ポアンカレーの説によると、原因があまりに複雑過ぎてちょっと見当がつかない時に云うのだね。ナポレオンが生れるためには或特別の卵と或特別の精虫の配合が必要で、その必要な配合が出来得るためには、またどんな条件が必要であったかと考えて見ると、ほとんど想像がつかないだろう」

彼は友達の言葉を、単に与えられた新らしい知識の断片として聞き流す訳に行かなかった。彼はそれをぴたりと自分の身の上に当(あ)て篏(は)めて考えた。すると暗い不可思議な力が右に行くべき彼を左に押しやったり、前に進むべき彼を後(うし)ろに引き戻したりするように思えた。しかも彼はついぞ今まで自分の行動について他(ひと)から牽制(けんせい)を受けた覚(おぼえ)がなかった。する事はみんな自分の力でし、言う事はことごとく自分の力で言ったに相違なかった。

「どうしてあの女はあすこへ嫁に行ったのだろう。それは自分で行こうと思ったから行ったに違ない。しかしどうしてもあすこへ嫁に行くはずではなかったのに。そうしてこのおれはまたどうしてあの女と結婚したのだろう。それもおれが貰(もら)おうと思ったからこそ結婚が成立したに違ない。しかしおれはいまだかつてあの女を貰おうとは思っていなかったのに。偶然? ポアンカレーのいわゆる複雑の極致? 何だか解らない」

彼は電車を降りて考えながら宅(うち)の方へ歩いて行った。

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  1. 01Full text
  2. 02一
  3. 03二
  4. 04三
  5. 05四
  6. 06五
  7. 07六
  8. 08七
  9. 09八
  10. 10九
  11. 11十
  12. 12十一
  13. 13十二
  14. 14十三
  15. 15十四
  16. 16十五
  17. 17十六
  18. 18十七
  19. 19十八
  20. 20十九
  21. 21二十
  22. 22二十一
  23. 23二十二
  24. 24二十三
  25. 25二十四
  26. 26二十五
  27. 27二十六
  28. 28二十七
  29. 29二十八
  30. 30二十九
  31. 31三十
  32. 32三十一
  33. 33三十二
  34. 34三十三
  35. 35三十四
  36. 36三十五
  37. 37三十六
  38. 38三十七
  39. 39三十八
  40. 40三十九
  41. 41四十
  42. 42四十一
  43. 43四十二
  44. 44四十三
  45. 45四十四
  46. 46四十五
  47. 47四十六
  48. 48四十七
  49. 49四十八
  50. 50四十九
  51. 51五十
  52. 52五十一
  53. 53五十二
  54. 54五十三
  55. 55五十四
  56. 56五十五
  57. 57五十六
  58. 58五十七
  59. 59五十八
  60. 60五十九
  61. 61六十
  62. 62六十一
  63. 63六十二
  64. 64六十三
  65. 65六十四
  66. 66六十五
  67. 67六十六
  68. 68六十七
  69. 69六十八
  70. 70六十九
  71. 71七十
  72. 72七十一
  73. 73七十二
  74. 74七十三
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  76. 76七十五
  77. 77七十六
  78. 78七十七
  79. 79七十八
  80. 80七十九
  81. 81八十
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  83. 83八十二
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  92. 92九十一
  93. 93九十二
  94. 94九十三
  95. 95九十四
  96. 96九十五
  97. 97九十六
  98. 98九十七
  99. 99九十八
  100. 100九十九
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  102. 102百一
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  119. 119百十八
  120. 120百十九
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  122. 122百二十一
  123. 123百二十二
  124. 124百二十三
  125. 125百二十四
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  127. 127百二十六
  128. 128百二十七
  129. 129百二十八
  130. 130百二十九
  131. 131百三十
  132. 132百三十一
  133. 133百三十二
  134. 134百三十三
  135. 135百三十四
  136. 136百三十五
  137. 137百三十六
  138. 138百三十七
  139. 139百三十八
  140. 140百三十九
  141. 141百四十
  142. 142百四十一
  143. 143百四十二
  144. 144百四十三
  145. 145百四十四
  146. 146百四十五
  147. 147百四十六
  148. 148百四十七
  149. 149百四十八
  150. 150百四十九
  151. 151百五十
  152. 152百五十一
  153. 153百五十二
  154. 154百五十三
  155. 155百五十四
  156. 156百五十五
  157. 157百五十六
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  159. 159百五十八
  160. 160百五十九
  161. 161百六十
  162. 162百六十一
  163. 163百六十二
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  165. 165百六十四
  166. 166百六十五
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  168. 168百六十七
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  170. 170百六十九
  171. 171百七十
  172. 172百七十一
  173. 173百七十二
  174. 174百七十三
  175. 175百七十四
  176. 176百七十五
  177. 177百七十六
  178. 178百七十七
  179. 179百七十八
  180. 180百七十九
  181. 181百八十
  182. 182百八十一
  183. 183百八十二
  184. 184百八十三
  185. 185百八十四
  186. 186百八十五
  187. 187百八十六
  188. 188百八十七
  189. 189百八十八

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