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日本語 BooksWhale エディション · 徳田秋声
愛情と生活の不安が交差する女性の姿を通し、人間関係の揺れと日常の現実を描く徳田秋声の小説。
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本の紹介
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徳田秋声が、女性の生活と感情の移ろいを細やかな観察によって描く作品。親密な関係のなかに生じる依存や隔たり、暮らしを支える条件、過去への思いが重なり合う。人物を一つの善悪にまとめず、言葉や振る舞い、周囲の空気から内面を浮かび上がらせる。自然主義文学の具体的な生活感に触れられる日本語原文。
BooksWhale エディション
このエディションの準備
このエディションはパブリックドメイン本文に基づき、BooksWhale がデジタル読書向けに準備しました。
パブリックドメイン根拠
このエディションを共有できる理由
徳田秋声(1872—1943)の日本語原著。作者の没年に基づき原作の著作権保護期間は満了している。青空文庫の原文を底本とし、現代の解説や入力・校正情報は本文に含めない。
プレビューを読む
準備済みテキストからの抜粋
準備済み読書テキストから選んだプレビューです。
プレビュー章Full textプレビューを読む
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徳田秋声
プレビュー章一プレビュー
最初におかれた下谷の家から、お増が麹町の方へ移って来たのはその年の秋のころであった。
自由な体になってから、初めて落ち着いた下谷の家では、お増は春の末から暑い夏の三月を過した。
そこは賑やかな広小路の通りから、少し裏へ入ったある路次のなかの小さい平家で、ついその向う前には男の知合いの家があった。
出て来たばかりのお増は、そんなに着るものも持っていなかった。遊里の風がしみていたから、口の利き方や、起居などにも落着きがなかった。広い大きな建物のなかから、初めてそこへ移って来たお増の目には、風鈴や何かと一緒に、上から隣の老爺の禿頭のよく見える黒板塀で仕切られた、じめじめした狭い庭、水口を開けると、すぐ向うの家の茶の間の話し声が、手に取るように聞える台所などが、鼻がつかえるようで、窮屈でならなかった。
その当座昼間など、その家の茶の間の火鉢の前に坐っていると、お増は寂しくてしようがなかった。がさがさした縁の板敷きに雑巾がけをしたり、火鉢を磨いたりして、湯にでも入って来ると、後はもう何にもすることがなかった。長いあいだ居なじんだ陽気な家の状が、目に浮んで来た。男は折り鞄などを提げて、昼間でも会社の帰りなどに、ちょいちょいやって来た。日が暮れてから、家から出て来ることもあった。男は女房持ちであった。
お増は髪を丸髷などに結って、台所で酒の支度をした。二人で広小路で買って来た餉台のうえには、男の好きな鱲や、鯛煎餅の炙ったのなどがならべられた。近所から取った、鰻の丼を二人で食べたりなどした。
いつも肩のあたりの色の褪めた背広などを着込んで、通って来たころから見ると、男はよほど金廻りがよくなっていた。米琉の絣の対の袷に模様のある角帯などをしめ、金縁眼鏡をかけている男のきりりとした様子には、そのころの書生らしい面影もなかった。
酒の切揚げなどの速い男は、来てもでれでれしているようなことはめったになかった。会社の仕事や、金儲けのことが、始終頭にあった。そして床を離れると、じきに時計を見ながらそこを出た。閉めきった入口の板戸が急いで開けられた。
男が帰ってしまうと、お増の心はまた旧の寂しさに反った。女房持ちの男のところへ来たことが、悔いられた。
「お神さんがないなんて、私を瞞しておいて、あなたもひどいじゃないの。」
来てから間もなく、向うの家のお婆さんからそのことを洩れ聞いたときに、お増はムキになって男を責めた。
「誰がそんなことを言った。」
男は媚びのある優しい目を睜ったが、驚きもしなかった。
「嘘だよ。」
「みんな聞いてしまいましたよ。前に京都から女が訪ねて来たことも、どこかの後家さんと懇意であったことも、ちゃんと知ってますよ。」
「へへ。」と、男は笑った。
「その京都の女からは、今でも時々何か贈って来るというじゃありませんか。」
「くだらないこといってら。」
「私はうまく瞞されたんだよ。」
男は床の上に起き上って、襯衣を着ていた。お増は側に立て膝をしながら、巻莨をふかしていた。睫毛の長い、疲れたような目が、充血していた。露出しの男の膝を抓ったり、莨の火をおっつけたりなどした。男はびっくりして跳ねあがった。
プレビュー章二プレビュー
しかし男も、とぼけてばかりいるわけには行かなかった。三、四年前に一緒になったその細君が、自分より二つも年上であること、書生のおりそこに世話になっていた時分から、長いあいだ自分を助けてくれたことなどを話して聞かした。そのころその女は少しばかりの金をもって、母親と一緒に暮していた。
「それ御覧なさい。世間体があるから当分別にいるなんて、私を瞞しておいて。」
二人は長火鉢の側へ来て、茶を飲んでいた。餉台におかれたランプの灯影に、薄い下唇を噛んで、考え深い目を見据えている女の、輪廓の正しい顔が蒼白く見られた。
「けどその片はじきにつくんだ。それにあの女には、喘息という持病もあるし、とても一生暮すてわけに行きゃしない。」
男は筒に煙管を収いこみながら、呟いた。
「喘息ですって。喘息って何なの。」
「咽喉がぜいぜいいう病気さ。」
「ううん、そんなお客があったよ。あれか。」
お増は想い出したように笑い出した。
「お酒飲んだり、不養生すると起るんだって、あれでしょう。厭だね。あなたはそんなお神さんと一緒にいるの。」
お増は顔を顰めて、男の顔を見た。男はにやにや笑っていた。
「でも、そんなに世話になった人を、そうは行きませんよ。そんな薄情な真似が出来るもんですか。」
「なに、要するに金の問題さ。」
「いいえ、金じゃ出て行きませんよ。それに、そんな人は他へ片着くてわけに行かないでしょう。」
お増は考え深い目色をした。しかし深く男を追窮することも出来なかった。
「あなたの神さんを、私一度見たいわね。」
お増は男の心でも引いて見るように言った。
「つまらない。」
男は鼻で笑った。
「それに、こんなことが知れると、出すにしても都合がわるい。」
「やはりあなたはお神さんがこわいんだよ。」
「こわいこわくないよりうるさい。」
「じゃ、あなたのお神さんはきっと嫉妬家なんだよ。」
「お前はどうだい。」
「ううん、私はやきゃしない。こうやっているうちに、東京見物でもさしてもらって、田舎へ帰って行ったっていいんだわ。」
お増はそう言って笑っていたが、商売をしていた時分の傷のついたことを感ぜずにはいられなかった。
近所が寝静まるころになると、お増はそこに独りいることが頼りなかった。床に入ってからも、容易に寝つかれないような晩が多かった。夜の世界にばかり目覚めていたお増の頭には、多勢の朋輩やお婆さんたちの顔や声が、まだ底にこびりついているようであった。抱擁すべき何物もない一晩の臥床は、長いあいだの勤めよりも懈く苦しかった。太鼓や三味の音も想い出された。
男の傍にいる神さんの顔や、部屋の状が目に見えたりした。
目次
このエディションの内容
- 01Full text
- 02一
- 03二
- 04三
- 05四
- 06五
- 07六
- 08七
- 09八
- 10九
- 11十
- 12十一
- 13十二
- 14十三
- 15十四
- 16十五
- 17十六
- 18十七
- 19十八
- 20十九
- 21二十
- 22二十一
- 23二十二
- 24二十三
- 25二十四
- 26二十五
- 27二十六
- 28二十七
- 29二十八
- 30二十九
- 31三十
- 32三十一
- 33三十二
- 34三十三
- 35三十四
- 36三十五
- 37三十六
- 38三十七
- 39三十八
- 40三十九
- 41四十
- 42四十一
- 43四十二
- 44四十三
- 45四十四
- 46四十五
- 47四十六
- 48四十七
- 49四十八
- 50四十九
- 51五十
- 52五十一
- 53五十二
- 54五十三
- 55五十四
- 56五十五
- 57五十六
- 58五十七
- 59五十八
- 60五十九
- 61六十