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阿部一族 cover

Japanese Edition

Literature

阿部一族

Japanese BooksWhale Edition by Mori Ogai

細川忠利の死後、殉死をめぐる判断と家臣たちの対立が、一族の悲劇へとつながる。森鴎外の歴史小説。

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阿部一族

細川忠利の死と家臣たちの殉死を背景に、阿部一族が追い詰められていく経緯を森鴎外が描く。忠義と名誉、命令と慣習、個人の思いと家中の論理が重なり、選択の余地を狭めていく。歴史上の事件をたどりながら、集団の規範が人間に及ぼす力を考えさせる小説である。

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森鴎外は1922年に没した。本版は青空文庫の日本語原文に基づき、本文外の注記と底本情報を除き、外字を対応する文字に復元した。

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従四位下左近衛少将兼越中守細川忠利は、寛永十八年辛巳の春、よそよりは早く咲く領地肥後国の花を見すてて、五十四万石の大名の晴れ晴れしい行列に前後を囲ませ、南より北へ歩みを運ぶ春とともに、江戸を志して参勤の途に上ろうとしているうち、はからず病にかかって、典医の方剤も功を奏せず、日に増し重くなるばかりなので、江戸へは出発日延べの飛脚が立つ。徳川将軍は名君の誉れの高い三代目の家光で、島原一揆のとき賊将天草四郎時貞を討ち取って大功を立てた忠利の身の上を気づかい、三月二十日には松平伊豆守、阿部豊後守、阿部対馬守の連名の沙汰書を作らせ、針医以策というものを、京都から下向させる。続いて二十二日には同じく執政三人の署名した沙汰書を持たせて、曽我又左衛門という侍を上使につかわす。大名に対する将軍家の取扱いとしては、鄭重をきわめたものであった。島原征伐がこの年から三年前寛永十五年の春平定してからのち、江戸の邸に添地を賜わったり、鷹狩の鶴を下されたり、ふだん慇懃を尽くしていた将軍家のことであるから、このたびの大病を聞いて、先例の許す限りの慰問をさせたのも尤もである。

将軍家がこういう手続きをする前に、熊本花畑の館では忠利の病が革かになって、とうとう三月十七日申の刻に五十六歳で亡くなった。奥方は小笠原兵部大輔秀政の娘を将軍が養女にして妻せた人で、今年四十五歳になっている。名をお千の方という。嫡子六丸は六年前に元服して将軍家から光の字を賜わり、光貞と名のって、従四位下侍従兼肥後守にせられている。今年十七歳である。江戸参勤中で遠江国浜松まで帰ったが、訃音を聞いて引き返した。光貞はのち名を光尚と改めた。二男鶴千代は小さいときから立田山の泰勝寺にやってある。京都妙心寺出身の大淵和尚の弟子になって宗玄といっている。三男松之助は細川家に旧縁のある長岡氏に養われている。四男勝千代は家臣南条大膳の養子になっている。女子は二人ある。長女藤姫は松平周防守忠弘の奥方になっている。二女竹姫はのちに有吉頼母英長の妻になる人である。弟には忠利が三斎の三男に生まれたので、四男中務大輔立孝、五男刑部興孝、六男長岡式部寄之の三人がある。妹には稲葉一通に嫁した多羅姫、烏丸中納言光賢に嫁した万姫がある。この万姫の腹に生まれた禰々姫が忠利の嫡子光尚の奥方になって来るのである。目上には長岡氏を名のる兄が二人、前野長岡両家に嫁した姉が二人ある。隠居三斎宗立もまだ存命で、七十九歳になっている。この中には嫡子光貞のように江戸にいたり、また京都、そのほか遠国にいる人だちもあるが、それがのちに知らせを受けて歎いたのと違って、熊本の館にいた限りの人だちの歎きは、わけて痛切なものであった。江戸への注進には六島少吉、津田六左衛門の二人が立った。

三月二十四日には初七日の営みがあった。四月二十八日にはそれまで館の居間の床板を引き放って、土中に置いてあった棺を舁き上げて、江戸からの指図によって、飽田郡春日村岫雲院で遺骸を荼毗にして、高麗門の外の山に葬った。この霊屋の下に、翌年の冬になって、護国山妙解寺が建立せられて、江戸品川東海寺から沢庵和尚の同門の啓室和尚が来て住持になり、それが寺内の臨流庵に隠居してから、忠利の二男で出家していた宗玄が、天岸和尚と号して跡つぎになるのである。忠利の法号は妙解院殿台雲宗伍大居士とつけられた。

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切米取りの殉死者はわりに多人数であったが、中にも津崎五助の事蹟は、きわだって面白いから別に書くことにする。

五助は二人扶持六石の切米取りで、忠利の犬牽きである。いつも鷹狩の供をして野方で忠利の気に入っていた。主君にねだるようにして、殉死のお許しは受けたが、家老たちは皆言った。「ほかの方々は高禄を賜わって、栄耀をしたのに、そちは殿様のお犬牽きではないか。そちが志は殊勝で、殿様のお許しが出たのは、この上もない誉れじゃ。もうそれでよい。どうぞ死ぬることだけは思い止まって、御当主にご奉公してくれい」と言った。

五助はどうしても聴かずに、五月七日にいつも牽いてお供をした犬を連れて、追廻田畑の高琳寺へ出かけた。女房は戸口まで見送りに出て、「お前も男じゃ、お歴々の衆に負けぬようにおしなされい」と言った。

津崎の家では往生院を菩提所にしていたが、往生院は上のご由緒のあるお寺だというのではばかって、高琳寺を死所ときめたのである。五助が墓地にはいってみると、かねて介錯を頼んでおいた松野縫殿助が先に来て待っていた。五助は肩にかけた浅葱の嚢をおろしてその中から飯行李を出した。蓋をあけると握り飯が二つはいっている。それを犬の前に置いた。犬はすぐに食おうともせず、尾をふって五助の顔を見ていた。五助は人間に言うように犬に言った。

「おぬしは畜生じゃから、知らずにおるかも知れぬが、おぬしの頭をさすって下されたことのある殿様は、もうお亡くなり遊ばされた。それでご恩になっていなされたお歴々は皆きょう腹を切ってお供をなさる。おれは下司ではあるが、御扶持を戴いてつないだ命はお歴々と変ったことはない。殿様にかわいがって戴いたありがたさも同じことじゃ。それでおれは今腹を切って死ぬるのじゃ。おれが死んでしもうたら、おぬしは今から野ら犬になるのじゃ。おれはそれがかわいそうでならん。殿様のお供をした鷹は岫雲院で井戸に飛び込んで死んだ。どうじゃ。おぬしもおれと一しょに死のうとは思わんかい。もし野ら犬になっても、生きていたいと思うたら、この握り飯を食ってくれい。死にたいと思うなら、食うなよ」

こう言って犬の顔を見ていたが、犬は五助の顔ばかりを見ていて、握り飯を食おうとはしない。

「それならおぬしも死ぬるか」と言って、五助は犬をきっと見つめた。

犬は一声鳴いて尾をふった。

「よい。そんなら不便じゃが死んでくれい」こう言って五助は犬を抱き寄せて、脇差を抜いて、一刀に刺した。

五助は犬の死骸をかたわらへ置いた。そして懐中から一枚の書き物を出して、それを前にひろげて、小石を重りにして置いた。誰やらの邸で歌の会のあったとき見覚えた通りに半紙を横に二つに折って、「家老衆はとまれとまれと仰せあれどとめてとまらぬこの五助哉」と、常の詠草のように書いてある。署名はしてない。歌の中に五助としてあるから、二重に名を書かなくてもよいと、すなおに考えたのが、自然に故実にかなっていた。

もうこれで何も手落ちはないと思った五助は「松野様、お頼み申します」と言って、安座して肌をくつろげた。そして犬の血のついたままの脇差を逆手に持って、「お鷹匠衆はどうなさりましたな、お犬牽きは只今参りますぞ」と高声に言って、一声快よげに笑って、腹を十文字に切った。松野が背後から首を打った。

五助は身分の軽いものではあるが、のちに殉死者の遺族の受けたほどの手当は、あとに残った後家が受けた。男子一人は小さいとき出家していたからである。後家は五人扶持をもらい、新たに家屋敷をもらって、忠利の三十三回忌のときまで存命していた。五助の甥の子が二代の五助となって、それからは代々触組で奉公していた。

忠利の許しを得て殉死した十八人のほかに、阿部弥一右衛門通信というものがあった。初めは明石氏で、幼名を猪之助といった。はやくから忠利の側近く仕えて、千百石余の身分になっている。島原征伐のとき、子供五人のうち三人まで軍功によって新知二百石ずつをもらった。この弥一右衛門は家中でも殉死するはずのように思い、当人もまた忠利の夜伽に出る順番が来るたびに、殉死したいと言って願った。しかしどうしても忠利は許さない。「そちが志は満足に思うが、それよりは生きていて光尚に奉公してくれい」と、何度願っても、同じことを繰り返して言うのである。

一体忠利は弥一右衛門の言うことを聴かぬ癖がついている。これはよほど古くからのことで、まだ猪之助といって小姓を勤めていたころも、猪之助が「ご膳を差し上げましょうか」と伺うと、「まだ空腹にはならぬ」と言う。ほかの小姓が申し上げると、「よい、出させい」と言う。忠利はこの男の顔を見ると、反対したくなるのである。そんなら叱られるかというと、そうでもない。この男ほど精勤をするものはなく、万事に気がついて、手ぬかりがないから、叱ろうといっても叱りようがない。

弥一右衛門はほかの人の言いつけられてすることを、言いつけられずにする。ほかの人の申し上げてすることを申し上げずにする。しかしすることはいつも肯綮にあたっていて、間然すべきところがない。弥一右衛門は意地ばかりで奉公して行くようになっている。忠利は初めなんとも思わずに、ただこの男の顔を見ると、反対したくなったのだが、のちにはこの男の意地で勤めるのを知って憎いと思った。憎いと思いながら、聡明な忠利はなぜ弥一右衛門がそうなったかと回想してみて、それは自分がしむけたのだということに気がついた。そして自分の反対する癖を改めようと思っていながら、月がかさなり年がかさなるにしたがって、それが次第に改めにくくなった。

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阿部一族の立て籠った山崎の屋敷は、のちに斎藤勘助の住んだ所で、向いは山中又左衛門、左右両隣は柄本又七郎、平山三郎の住いであった。

このうちで柄本が家は、もと天草郡を三分して領していた柄本、天草、志岐の三家の一つである。小西行長が肥後半国を治めていたとき、天草、志岐は罪を犯して誅せられ、柄本だけが残っていて、細川家に仕えた。

又七郎は平生阿部弥一右衛門が一家と心安くして、主人同志はもとより、妻女までも互いに往来していた。中にも弥一右衛門の二男弥五兵衛は鎗が得意で、又七郎も同じ技を嗜むところから、親しい中で広言をし合って、「お手前が上手でもそれがしにはかなうまい」、「いやそれがしがなんでお手前に負けよう」などと言っていた。

そこで先代の殿様の病中に、弥一右衛門が殉死を願って許されぬと聞いたときから、又七郎は弥一右衛門の胸中を察して気の毒がった。それから弥一右衛門の追腹、家督相続人権兵衛の向陽院での振舞い、それがもとになっての死刑、弥五兵衛以下一族の立籠りという順序に、阿部家がだんだん否運に傾いて来たので、又七郎は親身のものにも劣らぬ心痛をした。

ある日又七郎が女房に言いつけて、夜ふけてから阿部の屋敷へ見舞いにやった。阿部一族は上に叛いて籠城めいたことをしているから、男同志は交通することが出来ない。しかるに最初からの行きがかりを知っていてみれば、一族のものを悪人として憎むことは出来ない。ましてや年来懇意にした間柄である。婦女の身としてひそかに見舞うのは、よしや後日に発覚したとて申しわけの立たぬことでもあるまいという考えで、見舞いにはやったのである。女房は夫の詞を聞いて、喜んで心尽くしの品を取り揃えて、夜ふけて隣へおとずれた。これもなかなか気丈な女で、もし後日に発覚したら、罪を自身に引き受けて、夫に迷惑はかけまいと思ったのである。

阿部一族の喜びは非常であった。世間は花咲き鳥歌う春であるのに、不幸にして神仏にも人間にも見放されて、かく籠居している我々である。それを見舞うてやれという夫も夫、その言いつけを守って来てくれる妻も妻、実にありがたい心がけだと、心から感じた。女たちは涙を流して、こうなり果てて死ぬるからは、世の中に誰一人菩提を弔うてくれるものもあるまい、どうぞ思い出したら、一遍の回向をしてもらいたいと頼んだ。子供たちは門外へ一足も出されぬので、ふだん優しくしてくれた柄本の女房を見て、右左から取りすがって、たやすく放して帰さなかった。

阿部の屋敷へ討手の向う前晩になった。柄本又七郎はつくづく考えた。阿部一族は自分と親しい間柄である。それで後日の咎めもあろうかとは思いながら、女房を見舞いにまでやった。しかしいよいよ明朝は上の討手が阿部家へ来る。これは逆賊を征伐せられるお上の軍も同じことである。御沙汰には火の用心をせい、手出しをするなと言ってあるが、武士たるものがこの場合に懐手をして見ていられたものではない。情けは情け、義は義である。おれにはせんようがあると考えた。そこで更闌けて抜き足をして、後ろ口から薄暗い庭へ出て、阿部家との境の竹垣の結び縄をことごとく切っておいた。それから帰って身支度をして、長押にかけた手槍をおろし、鷹の羽の紋の付いた鞘を払って、夜の明けるのを待っていた。

討手として阿部の屋敷の表門に向うことになった竹内数馬は、武道の誉れある家に生まれたものである。先祖は細川高国の手に属して、強弓の名を得た島村弾正貴則である。享禄四年に高国が摂津国尼崎に敗れたとき、弾正は敵二人を両腋に挟んで海に飛び込んで死んだ。弾正の子市兵衛は河内の八隅家に仕えて一時八隅と称したが、竹内越を領することになって、竹内と改めた。竹内市兵衛の子吉兵衛は小西行長に仕えて、紀伊国太田の城を水攻めにしたときの功で、豊臣太閤に白練に朱の日の丸の陣羽織をもらった。朝鮮征伐のときには小西家の人質として、李王宮に三年押し籠められていた。小西家が滅びてから、加藤清正に千石で召し出されていたが、主君と物争いをして白昼に熊本城下を立ち退いた。加藤家の討手に備えるために、鉄砲に玉をこめ、火縄に火をつけて持たせて退いた。それを三斎が豊前で千石に召し抱えた。この吉兵衛に五人の男子があった。長男はやはり吉兵衛と名のったが、のち剃髪して八隅見山といった。二男は七郎右衛門、三男は次郎太夫、四男は八兵衛、五男がすなわち数馬である。

Table of contents

Inside this edition

  1. 01Part 1
  2. 02Part 2
  3. 03Part 3
  4. 04Part 4

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