
Japanese Edition
Literature
足迹
Japanese BooksWhale Edition by 徳田秋声
幼くして東京へ移ったお庄が、奉公や家族との関係を通じて生きる場所を探す。徳田秋声の長編小説。
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Book introduction
足迹
田舎から東京へ移り住んだお庄の成長と、生活のために移り歩く場所を徳田秋声が描く。家族との結びつき、奉公先の人々、結婚や暮らしの選択が、日常の細かな出来事のなかから浮かび上がる。八十六節を通じて、女性の生活と社会的な条件を自然主義の筆致で見つめる長編小説である。
BooksWhale edition
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徳田秋声は1943年に没した。本版は青空文庫の日本語原文に基づき、本文外の注記と底本情報を除き、外字を対応する文字に復元した。
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Preview chapter一Read preview
お庄の一家が東京へ移住したとき、お庄はやっと十一か二であった。
まさかの時の用意に、山畑は少しばかり残して、後は家屋敷も田もすっかり売り払った。煤けた塗り箪笥や長火鉢や膳椀のようなものまで金に替えて、それをそっくり父親が縫立ての胴巻きにしまい込んだ。
「どうせこんな田舎柄は東京にゃ流行らないで、こんらも古着屋へ売っちまおう。東京でうまく取り着きさえすれア衆にいいものを買って着せるで心配はない。」
とかく愚痴っぽい母親が、奥の納戸でゴツゴツした手織縞の着物を引っ張ったり畳んだりしていると、前後の考えのない父親がこう言って主張した。これまでにもさんざん道楽をし尽して、どうかこうか五人の子供を育てあげるにさしつかえぬくらいの身代を飲み潰してしまった父親は、妻子を引き連れてどこか面白いところを見物に行くような心持でいた。
それまでに夫婦は長いあいだ、身上をしまうしまわぬで幾度となく捫着した。母親はそのたびにいろいろの場合のことを言い出して、一つ一つなくなった物を数えたてた。
「あんらも今あれアたとい東京へ行くにしたってはずかしい思いはしないに」と、ろくに手を通さない紋附や小紋のようなものを、縫い直しにやると言って、一ト背負い町へ持ち出して行かれたことなどを、くどくどと零した。自分で苦労して、養蚕で取った金を夕方裏の川へ出ているちょっとの間に、ちょろりと占めて出て行ったきり、色町へ入り浸って、七日も十日も帰らなかったことなども、今さらのように言い立てられた。すると父親は煙管を筒にしまって腰へさすと、ぷいと炉端を立って向うの本家へ外してしまう。
お庄は母親が、売るものと持って行くものとを、丹念に選り分けて、しまったり出したりしている傍に座り込んで、これまでに見たこともない小片や袋物、古い押し絵、珊瑚球のような物を、不思議そうに選り出しては弄っていた。中には顎下腺炎とかで死んだ祖母さんの手の迹だという黴くさい巾着などもあった。お庄は自分の産れぬ前のことや、稚いおりのことを考えて、暗い懐かしいような心持がしていた。
家がすっかり片着いて、起つ二日ばかり前に一同本家へ引き揚げた時分には、思い断りのわるい母親の心もいくらか紛らされていた。明るい方へ出て行くような気もしていた。
父親は本家の若い主と朝から晩まで酒ばかり飲んでいた。村で目ぼしい家は、どこかで縁が繋がっていたので、それらの人々も、餞別を持って来ては、入れ替り立ち替り酒に浸っていた。山国の五月はやっと桜が咲く時分で裏山の松や落葉松の間に、微白いその花が見え、桑畑はまだ灰色に、田は雪が消えたままに柔かく黝んでいた。
道中はかなりに手間どった。汽車のあるところまで出るには、五日もかかった。馬車の通っているところは馬車に乗り、人力車のあるところは人力車に乗ったが、子供を負ったり、手を引っ張ったりして上るような嶮しい峠もあった。父親は早目にその日の旅籠へつくと、伊勢参宮でもした時のように悠長に構え込んで酒や下物を取って、ほしいままに飲んだり食ったりした。
「田舎の地酒もここがおしまいだで、お前もまあ坐って一つやれや。」と、父親はきちんと坐って、しゃがれたような声で言って、妻に酒を注いだ。
母親は泣き立てる乳呑み児を抱えて、お庄の明朝の髪を結ったり、下の井戸端で襁褓を洗ったりした。雨の降る日は部屋でそれを乾さなければならなかった。
「鼻汁をたらしていると、東京へ行って笑われるで、綺麗に行儀をよくしているだぞ。」と、父親はお庄の涕汁なぞを拭んでやった。気の荒い父親も旅へ出てからの妻や子に対する心持は優しかった。
ある町場に近い温泉場へつれて行った時、父親はそこで三日も四日も逗留して、終いに芸者をあげて騒ぎだした。
Preview chapter二Preview
一行が広い上野のプラットホームを、押し流されるように出て行ったのは、ある蒸し暑い日の夕方であった。
父親は鞄に二本からげた傘を通して、それを垂下げ、ぞろぞろ附いて来る子供を引っ張ってベンチのところへ連れて行くと、母親も泣き立てる背中の子を揺り揺り襁褓の入った包みを持って、めまぐるしい群集のなかを目の色を変えて急いで行った。停車場では蒼白い瓦斯燈の下に、夏帽やネルを着た人の姿がちらほら見受けられた。
そこで一休みしてから、「私はまア後で行くで、お前たちは人力車で一足先へ行っとれ。」と言って、よく東京を知っている父親は物馴れたような調子で、構外へ出て人力車を三台誂えた。行く先は母親の側の縁続きであった。父親は妻や子供をぞろぞろ引っ張って、そこへ入って行くのを好まなかった。
「それじゃ私は先へ行っておりますで、明朝はどうでも来て下さるだろうね。」母親は行李を一つ股の下へ挿んで、車夫が梶棒を持ち上げたときに、咽喉の塞がりそうな声を出して言うと、父親は頷いて傘に包みを一つ下げながら、帽子を傾げて停車場前の広場へ出て行った。
お庄は尻から二番目の妹と、一つの車に乗せられた。汽車に乗る前に、父親に町で買ってもらった花簪などを大事そうに頭髪にさしていた。
車は湯島の辺をあっちこっちまごついた。坂の上へあがると、煙突や灯の影の多い広い東京市中が、海のような濛靄の中に果てもなく拡がって見えたり、狭いごちゃごちゃした街が、幾個も幾個も続いたりした。そのうちに日がすっかり暮れた。
門構えや板塀囲いの家の多い町へ来たとき、がた人力車の音が耳につくくらいそこらが暗くシンとしていた。そこは明神の深い森の影を受けているようなところで、地面が低く空気がしッとりしていた。碧桐の蔭に埃を冠った瓦斯の見えるある下宿屋の前へ来かかったとき、母親と車夫との話し声を聞きつけて、薄暗い窓の簾のうちから、「鴨川の姉さまかね。」と言って、母親の実家の古い屋号を声をかけるものがあった。見るとそこに髯深い丸い顔が、近眼鏡を光らしてニコニコしている。
その顔はじきに入口の格子戸の方へ現われた。
「おや、みんなやって来たやって来た。」と言う、ここの女主の声も耳に入った。
しばらくすると帳場の次の狭苦しい部屋で物の莫迦叮寧な母親と、ここの人たちとの間に長い挨拶が始まった。
気象の烈しい女主は、くどいお辞儀を続けている母親を見下すようにして、「東京は田舎と異って、何もしずに、ぶらぶら遊んでいるような者は一人もいないで、為さあのような精のない人には、やって行かれるかどうだか私ア知らねえけれど、まず一ト通りや二タ通りのことでは駄目だぞえ。」と、ずけずけ言った。
「そうでござんすらいに……。」と、母親は淋しい笑顔を作って、ずらりと傍に並んで坐った子供を見やった。
子息の菊太郎は、ニコニコしながら茶をいれて衆に侑めた。
「大きくなったな。お庄さんは幾歳になるえね。」と、お庄の丸い顔を覗き込んだ。
部屋には薄暗いランプが点されて、女主の後から三男の繁三が黒い顔に目ばかりグリグリさせて、田舎から来た子供の方を眺めていた。
やがて繁三につれられて、お庄は弟と一緒に近所の洗湯へやられた。
Preview chapter三Preview
その晩お庄は迷子になった。
「お庄ちゃんは女だから、そっちへお入り。」と、お庄はパッと明るい女湯の中へ送り込まれて、一人できょろきょろしていた。そこには見たこともない大きい姿見がつるつるしていた。お庄は日焼けのした丸い顔や、田舎田舎した紅入り友染の帯を胸高に締めた自分の姿を見て、ぼッとしていた。
湯から上ってみると、男湯の方にはもう繁三も弟も見えなかった。お庄は一人で暗い外へ出ると、温かい湯の匂いのする溝際について、ぐんぐん歩いて行ったが、どこへ行っても同じような家と町ばかりであった。お庄はさっき車夫が上ったような暗い坂を上ったり下りたり、同じ下宿屋の前を二度も三度も往来したりした。するうちに町がだんだん更けて来て、今まで明るかった二階の板戸が、もう締まる家もあった。
菊太郎と繁三とが捜しに来たころには、お庄はもう歩き疲れて、軒燈の薄暗い、とある店屋の縁台の蔭にしゃがんで、目に涙をにじませながらぼんやりしていた。
「お前まあ今までどこにいただえ。」女主は帳場の奥から、帰って来たお庄に声かけた。
「東京には人浚いというこわいものがおるで、気をつけないといけないぞえ。」
お庄はメソメソしながら、母親の側へ寄って行った。
ごちゃごちゃした部屋の隅で、子供同士頭顱を並べて寝てからも、女主と母親と菊太郎とは、長火鉢の傍でいつまでも話し込んでいた。
「為さあは、何をして六人の子供を育てて行くつもりだかしらねえけれど、取り着くまでには、まあよっぽど骨だぞえ。」と女主は東京へ出てからの自分の骨折りなどを語って聞かせた。
「私らも、田舎でこそ押しも押されもしねえ家だけれど、東京へ出ちゃ女一人使うにも遠慮をしないじゃならないで……。」
田舎では問屋本陣の家柄であった女主は、良人が亡くなってから、自分の経営していた製糸業に失敗して、それから東京へ出て来た。そして下宿業を営みながら、三人の男の子を医師に仕立てようとしていた。それまでに商売は幾度となく変った。
翌日父親が来たとき、母親と子供は、狭い部屋にうようよしていた。
「とにかくどんなところでもいいで、家を一つ捜さないじゃ……話はそれからのことですって。」と父親は落ち着き払って莨を喫していた。
午後に菊太郎と父親とは、近所へ家を見に出た。家はじきに決まった。すぐ横町の路次のなかに、このごろ新しく建てられた、安普請の平屋がそれで、二人はまだ泥壁に鋸屑の散っている狭い勝手口から上って行くと、台所や押入れの工合を見てあるいた。
「田舎の家から見れア手狭いもんだでね。」と菊太郎は砂でざらざらする青畳の上を、浮き足で歩きながら笑った。
「まあ仮だでどうでもいい。新しいで結構住まえる。東京じゃ、これで坪二十円もしますら。」
晩方には、もうそこへ移るような手続きが出来てしまった。
下宿からは、さしあたり必要な古火鉢や茶呑み茶碗、雑巾のような物が運ばれ、父親は通りからランプや油壺、七輪のような物を、一つ一つ買っては提げ込んで来た。母親は木の香の新しい台所へ出て、ゴシゴシ働いていた。
その間お庄は、乳呑み児を背に縛りつけられて、下宿と引っ越し先との間を、幾度となく通っていた。
Table of contents
Inside this edition
- 01一
- 02二
- 03三
- 04四
- 05五
- 06六
- 07七
- 08八
- 09九
- 10十
- 11十一
- 12十二
- 13十三
- 14十四
- 15十五
- 16十六
- 17十七
- 18十八
- 19十九
- 20二十
- 21二十一
- 22二十二
- 23二十三
- 24二十四
- 25二十五
- 26二十六
- 27二十七
- 28二十八
- 29二十九
- 30三十
- 31三十一
- 32三十二
- 33三十三
- 34三十四
- 35三十五
- 36三十六
- 37三十七
- 38三十八
- 39三十九
- 40四十
- 41四十一
- 42四十二
- 43四十三
- 44四十四
- 45四十五
- 46四十六
- 47四十七
- 48四十八
- 49四十九
- 50五十
- 51五十一
- 52五十二
- 53五十三
- 54五十四
- 55五十五
- 56五十六
- 57五十七
- 58五十八
- 59五十九
- 60六十
- 61六十一
- 62六十二
- 63六十三
- 64六十四
- 65六十五
- 66六十六
- 67六十七
- 68六十八
- 69六十九
- 70七十
- 71七十一
- 72七十二
- 73七十三
- 74七十四
- 75七十五
- 76七十六
- 77七十七
- 78七十八
- 79七十九
- 80八十
- 81八十一
- 82八十二
- 83八十三
- 84八十四
- 85八十五
- 86八十六
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