
Japanese Edition
Literature
硝子戸の中
Japanese BooksWhale Edition by Natsume Sōseki
硝子戸の内から過去と現在を見つめ、夏目漱石が人々との出会いと心の動きを綴る随筆集。
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Book introduction
硝子戸の中
静かな書斎から庭や来訪者を眺めながら、夏目漱石は幼い日の記憶、家族、知人、読者との交流へと思いを巡らせる。何気ない出来事の奥にある親しさや隔たり、人生の偶然が、抑制された筆致で描かれていく。晩年の暮らしと心境に触れることのできる、全三十九篇の日本語原文随筆集。
BooksWhale edition
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This edition is based on a public domain text and has been prepared for digital reading by BooksWhale.
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夏目漱石(1916年没)の日本語原作。著作権保護期間を満了した本文の青空文庫テキストを用い、入力者注、底本情報、画像を除いて整理した。
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Preview chapter一Read preview
硝子戸の中から外を見渡すと、霜除をした芭蕉だの、赤い実の結った梅もどきの枝だの、無遠慮に直立した電信柱だのがすぐ眼に着くが、その他にこれと云って数え立てるほどのものはほとんど視線に入って来ない。書斎にいる私の眼界は極めて単調でそうしてまた極めて狭いのである。
その上私は去年の暮から風邪を引いてほとんど表へ出ずに、毎日この硝子戸の中にばかり坐っているので、世間の様子はちっとも分らない。心持が悪いから読書もあまりしない。私はただ坐ったり寝たりしてその日その日を送っているだけである。
しかし私の頭は時々動く。気分も多少は変る。いくら狭い世界の中でも狭いなりに事件が起って来る。それから小さい私と広い世の中とを隔離しているこの硝子戸の中へ、時々人が入って来る。それがまた私にとっては思いがけない人で、私の思いがけない事を云ったり為たりする。私は興味に充ちた眼をもってそれらの人を迎えたり送ったりした事さえある。
私はそんなものを少し書きつづけて見ようかと思う。私はそうした種類の文字が、忙がしい人の眼に、どれほどつまらなく映るだろうかと懸念している。私は電車の中でポッケットから新聞を出して、大きな活字だけに眼を注いでいる購読者の前に、私の書くような閑散な文字を列べて紙面をうずめて見せるのを恥ずかしいものの一つに考える。これらの人々は火事や、泥棒や、人殺しや、すべてその日その日の出来事のうちで、自分が重大と思う事件か、もしくは自分の神経を相当に刺戟し得る辛辣な記事のほかには、新聞を手に取る必要を認めていないくらい、時間に余裕をもたないのだから。――彼らは停留所で電車を待ち合わせる間に、新聞を買って、電車に乗っている間に、昨日起った社会の変化を知って、そうして役所か会社へ行き着くと同時に、ポッケットに収めた新聞紙の事はまるで忘れてしまわなければならないほど忙がしいのだから。
私は今これほど切りつめられた時間しか自由にできない人達の軽蔑を冒して書くのである。
去年から欧洲では大きな戦争が始まっている。そうしてその戦争がいつ済むとも見当がつかない模様である。日本でもその戦争の一小部分を引き受けた。それが済むと今度は議会が解散になった。来るべき総選挙は政治界の人々にとっての大切な問題になっている。米が安くなり過ぎた結果農家に金が入らないので、どこでも不景気だと零している。年中行事で云えば、春の相撲が近くに始まろうとしている。要するに世の中は大変多事である。硝子戸の中にじっと坐っている私なぞはちょっと新聞に顔が出せないような気がする。私が書けば政治家や軍人や実業家や相撲狂を押し退けて書く事になる。私だけではとてもそれほどの胆力が出て来ない。ただ春に何か書いて見ろと云われたから、自分以外にあまり関係のないつまらぬ事を書くのである。それがいつまでつづくかは、私の筆の都合と、紙面の編輯の都合とできまるのだから、判然した見当は今つきかねる。
Preview chapter二Preview
電話口へ呼び出されたから受話器を耳へあてがって用事を訊いて見ると、ある雑誌社の男が、私の写真を貰いたいのだが、いつ撮りに行って好いか都合を知らしてくれろというのである。私は「写真は少し困ります」と答えた。
私はこの雑誌とまるで関係をもっていなかった。それでも過去三四年の間にその一二冊を手にした記憶はあった。人の笑っている顔ばかりをたくさん載せるのがその特色だと思ったほかに、今は何にも頭に残っていない。けれどもそこにわざとらしく笑っている顔の多くが私に与えた不快の印象はいまだに消えずにいた。それで私は断わろうとしたのである。
雑誌の男は、卯年の正月号だから卯年の人の顔を並べたいのだという希望を述べた。私は先方のいう通り卯年の生れに相違なかった。それで私はこう云った。――
「あなたの雑誌へ出すために撮る写真は笑わなくってはいけないのでしょう」
「いえそんな事はありません」と相手はすぐ答えた。あたかも私が今までその雑誌の特色を誤解していたごとくに。
「当り前の顔で構いませんなら載せていただいても宜しゅうございます」
「いえそれで結構でございますから、どうぞ」
私は相手と期日の約束をした上、電話を切った。
中一日おいて打ち合せをした時間に、電話をかけた男が、綺麗な洋服を着て写真機を携えて私の書斎に這入って来た。私はしばらくその人と彼の従事している雑誌について話をした。それから写真を二枚撮って貰った。一枚は机の前に坐っている平生の姿、一枚は寒い庭前の霜の上に立っている普通の態度であった。書斎は光線がよく透らないので、機械を据えつけてからマグネシアを燃した。その火の燃えるすぐ前に、彼は顔を半分ばかり私の方へ出して、「御約束ではございますが、少しどうか笑っていただけますまいか」と云った。私はその時突然微かな滑稽を感じた。しかし同時に馬鹿な事をいう男だという気もした。私は「これで好いでしょう」と云ったなり先方の注文には取り合わなかった。彼が私を庭の木立の前に立たして、レンズを私の方へ向けた時もまた前と同じような鄭寧な調子で、「御約束ではございますが、少しどうか……」と同じ言葉を繰り返した。私は前よりもなお笑う気になれなかった。
それから四日ばかり経つと、彼は郵便で私の写真を届けてくれた。しかしその写真はまさしく彼の注文通りに笑っていたのである。その時私は中が外れた人のように、しばらく自分の顔を見つめていた。私にはそれがどうしても手を入れて笑っているように拵えたものとしか見えなかったからである。
私は念のため家へ来る四五人のものにその写真を出して見せた。彼らはみんな私と同様に、どうも作って笑わせたものらしいという鑑定を下した。
私は生れてから今日までに、人の前で笑いたくもないのに笑って見せた経験が何度となくある。その偽りが今この写真師のために復讐を受けたのかも知れない。
彼は気味のよくない苦笑を洩らしている私の写真を送ってくれたけれども、その写真を載せると云った雑誌はついに届けなかった。
Preview chapter三Preview
私がHさんからヘクトーを貰った時の事を考えると、もういつの間にか三四年の昔になっている。何だか夢のような心持もする。
その時彼はまだ乳離れのしたばかりの小供であった。Hさんの御弟子は彼を風呂敷に包んで電車に載せて宅まで連れて来てくれた。私はその夜彼を裏の物置の隅に寝かした。寒くないように藁を敷いて、できるだけ居心地の好い寝床を拵えてやったあと、私は物置の戸を締めた。すると彼は宵の口から泣き出した。夜中には物置の戸を爪で掻き破って外へ出ようとした。彼は暗い所にたった独り寝るのが淋しかったのだろう、翌る朝までまんじりともしない様子であった。
この不安は次の晩もつづいた。その次の晩もつづいた。私は一週間余りかかって、彼が与えられた藁の上にようやく安らかに眠るようになるまで、彼の事が夜になると必ず気にかかった。
私の小供は彼を珍らしがって、間がな隙がな玩弄物にした。けれども名がないのでついに彼を呼ぶ事ができなかった。ところが生きたものを相手にする彼らには、是非とも先方の名を呼んで遊ぶ必要があった。それで彼らは私に向って犬に名を命けてくれとせがみ出した。私はとうとうヘクトーという偉い名を、この小供達の朋友に与えた。
それはイリアッドに出てくるトロイ一の勇将の名前であった。トロイと希臘と戦争をした時、ヘクトーはついにアキリスのために打たれた。アキリスはヘクトーに殺された自分の友達の讐を取ったのである。アキリスが怒って希臘方から躍り出した時に、城の中に逃げ込まなかったものはヘクトー一人であった。ヘクトーは三たびトロイの城壁をめぐってアキリスの鋒先を避けた。アキリスも三たびトロイの城壁をめぐってその後を追いかけた。そうしてしまいにとうとうヘクトーを槍で突き殺した。それから彼の死骸を自分の軍車に縛りつけてまたトロイの城壁を三度引き摺り廻した。……
私はこの偉大な名を、風呂敷包にして持って来た小さい犬に与えたのである。何にも知らないはずの宅の小供も、始めは変な名だなあと云っていた。しかしじきに慣れた。犬もヘクトーと呼ばれるたびに、嬉しそうに尾を振った。しまいにはさすがの名もジョンとかジォージとかいう平凡な耶蘇教信者の名前と一様に、毫も古典的な響を私に与えなくなった。同時に彼はしだいに宅のものから元ほど珍重されないようになった。
ヘクトーは多くの犬がたいてい罹るジステンパーという病気のために一時入院した事がある。その時は子供がよく見舞に行った。私も見舞に行った。私の行った時、彼はさも嬉しそうに尾を振って、懐かしい眼を私の上に向けた。私はしゃがんで私の顔を彼の傍へ持って行って、右の手で彼の頭を撫でてやった。彼はその返礼に私の顔を所嫌わず舐めようとしてやまなかった。その時彼は私の見ている前で、始めて医者の勧める小量の牛乳を呑んだ。それまで首を傾げていた医者も、この分ならあるいは癒るかも知れないと云った。ヘクトーははたして癒った。そうして宅へ帰って来て、元気に飛び廻った。
Table of contents
Inside this edition
- 01一
- 02二
- 03三
- 04四
- 05五
- 06六
- 07七
- 08八
- 09九
- 10十
- 11十一
- 12十二
- 13十三
- 14十四
- 15十五
- 16十六
- 17十七
- 18十八
- 19十九
- 20二十
- 21二十一
- 22二十二
- 23二十三
- 24二十四
- 25二十五
- 26二十六
- 27二十七
- 28二十八
- 29二十九
- 30三十
- 31三十一
- 32三十二
- 33三十三
- 34三十四
- 35三十五
- 36三十六
- 37三十七
- 38三十八
- 39三十九
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