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放浪記(初出) cover

Japanese Edition

Literature

放浪記(初出)

Japanese BooksWhale Edition by Fumiko Hayashi

職を転々としながら暮らす女性の貧困、移動、読書、恋愛と創作への思いを記した初出形の『放浪記』。

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Book introduction

放浪記(初出)

林芙美子が『女人藝術』に発表した一九二八年から一九三〇年の文章を収める。住まいと仕事を求める日々、食事や金銭の悩み、人との出会いが、詩情を帯びた記録として重ねられる。後年の大幅な改稿や追加された第三部とは区別し、作品の初出形を通して若い書き手の生活と感情を読む。

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林芙美子は1951年に没した。本版は青空文庫の著作権保護期間が満了した日本語原文を用い、現代の解説、注記、底本情報を除いて本文を収録する。

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放浪記(初出)

Preview chapter秋が来たんだPreview

十月×日

一尺四方の四角な天窓を眺めて、始めて紫色に澄んだ空を見た。

秋が来たんだ。コック部屋で御飯を食べながら私は遠い田舎の秋をどんなにか恋しく懐しく思った。

秋はいゝな……。

今日も一人の女が来た。マシマロのように白っぽい一寸面白そうな女。厭になってしまう、なぜか人が恋いしい。

そのくせ、どの客の顔も一つの商品に見えて、どの客の顔も疲れている。なんでもいゝ私は雑誌を読む真似をして、じっと色んな事を考えていた。やり切れない。

なんとかしなくては、全く自分で自分を朽ちさせてしまうようだ。

十月×日

広い食堂の中を片づけてしまって始めて自分の体になったような気がする。真実に何か書きたい。それは毎日毎晩思いながら、考えながら、部屋へ帰るんだが、一日中立っているので疲れて夢も見ずに寝てしまう。

淋しいなあ。ほんとにつまらないなあ……。住込は辛い。その内通いにするように部屋を探そうと思うが、何分出る事も出来ない。

夜、寝てしまうのがおしくて、暗い部屋の中でじっと目を開けていると、溝の処だろう、チロチロ……虫が鳴いている。

冷い涙が不甲斐なく流れて、泣くまいと思ってもせぐりあげる涙をどうする事も出来ない。何とかしなくてはと思いながら、古い蚊帳の中に、樺太の女や、金沢の女達三人枕を並べているのが、何だか店に晒らされた茄子のようで佗しい。

「虫が鳴いてるよう……。」

そっと私が隣のお秋さんにつぶやくと、

「ほんとにこんな晩は酒でも呑んで寝たいね。」

梯子段の下に枕をしていた、お俊さんまでが、

「へん、あの人でも思い出したかい……。」

皆淋しいお山の閑古鳥。

何か書きたい。何か読みたい。ひやひやとした風が蚊帳の裾を吹く、十二時だ。

十月×日

少しばかりのお小遣いが貯ったので、久し振りに日本髪に結う。

日本髪はいゝな、キリヽと元結いを締めてもらうと眉毛が引きしまって、たっぷりと水を含ませた鬢出しで前髪をかき上げると、ふっさりと額に垂れて、違った人のように美しくなる。

鏡に色目をつかったって、鏡が惚れてくれるばかり。日本髪は女らしいね、こんなに綺麗に髪が結べた日にゃあ、何処かい行きたい。汽車に乗って遠くい遠くい行きたい。

隣の本屋で銀貨を一円札に替えてもらって故里のお母さんの手紙の中に入れてやった。喜ぶだろう。

手紙の中からお札が出て来る事は私でも嬉しいもの……。

ドラ焼きを買って皆と食べた。

今日はひどい嵐、雨が降る。

こんな日は淋しい。足がガラスのように固く冷える。

十月×日

静かな晩だ。

「お前どこだね国は?」

金庫の前に寝ている年取った主人が、此間来た俊ちゃんに話かける。寝ながら他人の話を聞くのも面白い。

「私でしか……樺太です。豊原って御存知でしか?」

「樺太から? お前一人で来たのかね。」

「えゝ!」

「あれまあ、お前きつい女だね。」

「長い事函館の青柳町にもいた事があります。」

「いゝ所に居たんだね、俺も北海道だよ。」

「そうでしょうと思いました。言葉にあちらの訛がありますもの。」

啄木の歌を思い出して真実俊ちゃんが好きになった。

函館の青柳町こそ悲しけれ

友の恋歌

矢車の花。

いゝね。生きている事もいゝね。真実に何だか人生も楽しいものゝように思えて来た。皆いゝ人達ばかりだ。

初秋だ、うすら冷い風が吹く。

佗しいなりにも何だか女らしい情熱が燃えて来る。

十月×日

お母さんが例のリウマチで、体具合が悪いと云って来た。

もらいがちっとも無い。

客の切れ間に童話を書く、題「魚になった子供の話」十一枚。

何とかして国へ送ってあげよう。老いて金もなく頼る者もない事は、どんなに悲惨な事だろう。

可哀想なお母さん、ちっとも金を無心して下さらないので余計どうしていらっしゃるかと心配します。

「その内お前さん、俺んとこへ遊びに行かないか、田舎はいゝよ。」

三年も此家で女給をしているお計ちゃんが男のような口のきゝかたでさそってくれた。

「えゝ……行くとも、何日でも泊めてくれて?」

私はそれまで少し金を貯めよう。

いゝなあ、こんな処の女達の方がよっぽど親切で思いやりがある。

「私しぁ、もうもう愛だの恋だの、貴女に惚れました、一生捨てないのなんて馬鹿らしい真平だよ。あゝこんな世の中でお前さん! そんな約束なんて何もなりはしないよ。私をこんなにした男は今、代議士なんてやってるけど子供を生ませると、ぷいさ。私達が私生児を生めば皆そいつがモダンガールさ、いゝ面の皮さ……馬鹿馬鹿しいね浮世は、今の世は真心なんてものは、薬にしたくもないよ。私がこうして三年もこんな仕事をしてるのは、私の子供が可愛いからさ……ハッハッ……。」

お計さんの話を聞いていると、ジリジリとしていた気持が、トンと明るくなる。素的にいゝ人だ。

十月×日

ガラス窓を、眺めていると、雨が電車のように過ぎて行った。

今日は少しかせいだ。

俊ちゃんは不景気だってこぼしている。でも扇風機の台に腰を掛けて、憂欝そうに身の上話をしたが、正直な人だ。

浅草の大きいカフェーに居て、友達にいじめられて出て来たんだが、浅草の占師に見てもらったら、神田の小川町あたりがいゝって云ったので来たのだと云っていた。

お計さんが、

「おい、こゝは錦町になってるんだよ。」

と云ったら、

「あらそうかしら……。」

とつまらなさそうな顔をしていた。

此の家では一番美しくて、一番正直で一番面白い話を持っていた。

メリービックホードの瞳を持って、スワンソンのような体つきをしていた。

十月×日

仕事をしまって湯にはいるとせいせいする。広い食堂を片づけている間に、コックや皿洗い達が先湯をつかって、二階の広座敷へ寝てしまうと、私達はいつまでも湯を楽しむ事が出来た。

Preview chapter濁り酒Preview

十月×日

焼栗の声がなつかしい頃になった。

廓を流して行く焼栗のにぶい声を聞いていると、ほろほろと淋しくなって暗い部屋の中に、私はしょんぼりじっと窓を見ていた。

私は小さい時から、冬になりかけると、よく歯が痛んだ。

まだ母親に甘えている時は、畳に転々泣き叫び、ビタビタの梅干を顔一杯塗って貰っては、しゃっくりをして泣いていた私だった。

だが、ようやく人生も半ば近くに達し、旅の空の、こうした佗しいカフェーの二階に、歯を病んで寝ていると、じき故郷の野や山や海や、別れた人達の顔を思出す。

水っぽい瞳を向けてお話をするのゝ様は、歪んだ窓外の漂々としたお月様ばかり……。

「まだ痛む……。」

そっと上って来たお君さんの大きいひさし髪が、月の光りで、黒々と私の上におおいかぶさると、今朝から何も食べない私の鼻穴に、プンと海苔の香をたゞよわせて、お君さんは枕元にそっと寿司皿を置いた。そして黙って、私のみひらいた目を見ていた。

優しい心づかいだ……わけもなく、涙がにじんで、薄い蒲団の下からそっと財布を出すと、君ちゃんは、

「馬鹿ね!」

厚紙でも叩くようなかるい痛さで、お君さんは、ポンと私の手を打つと、蒲団の裾をジタジタとおさえてそっと又、裏梯子を降りて行った。

あゝなつかしい世界だ。

十月×日

風が吹く。

夜明近く水色の細い蛇が、スイスイと地を這っている夢を見た。

それにとき色の腰紐が結ばれていて、妙に起るとから、胸さわぎのするようないゝ事が、素的に楽しい事があるような気がする。

朝の掃除がすんで、じっと鏡を見ていると、蒼くむくんだ顔は、生活に疲れ荒さんで、私はあゝと長い溜息をついて、壁の中にでもはいってしまいたかった。

今朝も泥のような味噌汁と、残り飯かと思うと、支那そばでも食べたいなあと思った。

私は何も塗らない、ぼんやりとした顔を見ていると、急に焦々として、唇に紅々と、べにを引いてみた。

あの人はどうしているかしら……AもBもCも、切れ掛った鎖をそっと掴もうとしたが、お前達はやっぱり風景の中の並樹だよ……。

神経衰弱になったのか、何枚も皿を持つ事が恐ろしくなった。

のれん越しにすがすがしい朝の盛塩を見ていると、女学生の群にけとばされて、さっと散っては山がずるずるとひくくなって行く。

私が此家に来て二週間、もらいはかなりある。

朋輩が二人。

お初ちゃんと言う女は、名のように初々しくて、銀杏返しのよく似合うほんとに可愛いこだった。

「私は四谷で生れたのだけど、十二の時、よその叔父さんに連れられて、満洲にさらわれて行ったのよ。私芸者屋にじき売られたから、その叔父さんの顔もじき忘れっちまったけど……私そこの桃千代と云う娘と、よく広いつるつるした廊下をすべりっこしたわ、まるで鏡みたいだった。

内地から芝居が来ると、毛布をかぶって、長靴をはいて見にいったわ、土が凍ってしまうと、下駄で歩けるのよ、だけどお風呂から上ると、鬢の毛がピンとして、おかしいわよ。

私六年ばかりいたけど、満洲の新聞社の人に連れて帰ってもらったのよ。」

客の飲み食いして行った後の、テーブルにこぼれた酒で字を書きながら、可愛らしいお初ちゃんは、重たい口で、こんな事を云った。

も一人私より一日早くはいったお君さんは脊の高い母性的な、気立のいゝ女だった。

廓の出口にある此店は、案外しっとり落ついていて、私は二人の女達ともじき仲よくなれた。

こんな処に働いている女達は、始めどんな意地悪るくコチコチに要心して、仲よくなってくれなくっても、一度何かのはずみでか、真心を見せると、他愛もなく、すぐまいってしまって、十年の知己のように、まるで姉妹以上になってしまう。

客が途絶えると、私達はよくかたつむりのようにまるくなった。

十一月×日

どんよりとした空。

君ちゃんとさしむかいで、じっとしていると、むかあしかいだ事のある、何か黄ろっぽい花の匂いがする。

夕方、電車通りの風呂から帰って来ると、いつも呑んだくれの大学生の水野さんが、初ちゃんに酒をつがして呑んでいた。

「あんたはとうと裸を見られたわよ。」

お初ちゃんがニタニタ笑いながら、鬢窓に櫛を入れている私の顔を鏡越しに見て、こう言った。

「あんたが風呂に行くとすぐ水野さんが来て、あんたの事聞いたから、風呂って云ったの……」

呑んだくれの大学生は、風のように細い手を振りながら、頭をトントン叩いていた。

「嘘だよ!」

「アラ! 今言ったじゃないの……水野さんてば、電車通りへいそいで行ったから、どうしたのかと、思ってたら、帰って来て、水野さん、女湯をあけたんですって、そしたら番台でこっちは女湯ですよッ! て言ったってさ、そしたら、あゝ病院とまちがえましたってじっとしてたら、丁度あんたが、裸になった処だって、水野さんそれゃあ大喜びなの……。」

「へん! 随分助平な話ね。」

私はやけに頬紅をはくと、大学生は薄いコンニャクのような手を合わせて、

「怒った? かんにんしてね!」

裸が見たけりゃあ、お天陽様の下に真裸で転って見せるよッ! とよっぽど、吐鳴ってやりたかった。

一晩中気分が重っくるしくって、私はうで卵を七ツ八ツパッチンパッチンテーブルへぶっつけてわった。

十一月×日

秋刀魚を焼く匂いは季節の呼び声だ。

夕方になると、廓の中は今日も秋刀魚の臭い、お女郎は毎日秋刀魚じゃあ、体中うろこが浮いてくるだろう……

夜霧が白い白い、電信柱の細っこい姿が針のように影を引いて、のれんの外にたって、ゴウゴウ走って行く電車を見ていると、なぜかうらやましくなって鼻の中がジンと熱くなる。

蓄音器のこわれたゼンマイは昨日もかっぽれ今日もかっぽれだ。

生きる事が実際退屈になった。

こんな処で働いていると、荒さんで荒さんで、私は万引でもしたくなる。女馬賊にでもなりたくなる。

インバイにでもなりたくなる。

若い姉さんなぜ泣くの

薄情男が恋ひしいの……

誰も彼も、誰も彼も、ワッハ! ワッハ! あゝ地球よパンパンと真二つになれッ、私を嘲笑っている顔が幾つもうようよしてる。

「キングオブキングを十杯飲んでごらん、拾円のかけだ!」

どっかの呑気坊主が、厭にキンキラ顔を光らせて、いれずみのような拾円札を、ピラリッとテーブルに吸いつかせた。

Table of contents

Inside this edition

  1. 01Full text
  2. 02秋が来たんだ
  3. 03濁り酒
  4. 04一人旅
  5. 05古創
  6. 06百面相
  7. 07赤いスリッパ
  8. 08粗忽者の涙
  9. 09女の吸殻
  10. 10下谷の家
  11. 11酒屋の二階
  12. 12三白草の花
  13. 13秋の唇
  14. 14目標を消す
  15. 15裸になって
  16. 16旅の古里
  17. 17淫売婦と飯屋
  18. 18雷雨
  19. 19海の祭
  20. 20寝床のない女
  21. 21女アパッシュ

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