
Japanese Edition
Literature
黴
Japanese BooksWhale Edition by Tokuda Shūsei
家庭生活、貧困、倦怠、夫婦関係、心理描写、自然主義文学を描く近代日本文学の公版原文作品。
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Book introduction
黴
『黴』は、家庭生活、貧困、倦怠、夫婦関係、心理描写、自然主義文学を読むうえで重要な徳田秋声の作品です。本日本語版は原文にもとづく公版テキストをBooksWhale向けに整え、オンライン読書、EPUB、PDFで読みやすく利用できるようにしています。
BooksWhale edition
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This edition is based on a public domain text and has been prepared for digital reading by BooksWhale.
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『黴』は1911年に発表・刊行された作品です。本版は日本語原文にもとづくパブリックドメイン版として整理しています。
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黴
徳田秋声
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黴 徳田秋声
一
笹村が妻の入籍を済ましたのは、二人のなかに産れた幼児の出産届と、ようやく同時くらいであった。 家を持つということがただ習慣的にしか考えられなかった笹村も、そのころ半年たらずの西の方の旅から帰って来ると、これまで長いあいだいやいや執着していた下宿生活の荒れたさまが、一層明らかに振り顧られた。あっちこっち行李を持ち廻って旅している間、笹村の充血したような目に強く映ったのは、若い妻などを連れて船へ入り込んで来る男であった。九州の温泉宿ではまた無聊に苦しんだあげく、湯に浸りすぎて熱病を患ったが、時々枕頭へ遊びに来る大阪下りの芸者と口を利くほか、一人も話し相手がなかった。 「どういうのがえいのんや。私が気に入りそうなのを見立てて上げるよって……東京ものは蓮葉で世帯持ちが下手やと言うやないか。」笹村が湯に中って蒼い顔をして一トまず大阪の兄のところへ引き揚げて来たとき、留守の間に襟垢のこびりついた小袖や、袖口の切れかかった襦袢などをきちんと仕立て直しておいてくれた嫂はこう言って、早く世帯を持つように勧めた。 笹村はもう道頓堀にも飽いていた。せせっこましい大阪の町も厭わしいようで、じきに帰り支度をしようとしたが、長く離れていた東京の土を久しぶりで踏むのが楽しいようでもあり、何だか不安のようでもあった。帰路立ち寄った京都では、旧友がその愛した女と結婚して持った楽しげな家庭ぶりをも見せられた。 「我々の仲間では君一人が取り残されているばかりじゃないか。」 友達は長煙管に煙草をつめながら、静かな綺麗な二階の書斎で、温かそうな大ぶりな厚い蒲団のうえに坐って、何やら蒔絵をしてある自分持ちの莨盆を引き寄せた。そこからは紫だったような東山の円ッこい背が見られた。 「京の舞妓だけは一見しておきたまえ。」友はそれから、新樹の蔭に一片二片ずつ残った桜の散るのを眺めながら、言いかけたが、笹村の余裕のない心には、京都というものの匂いを嗅いでいる隙すらなかった。それで二人一緒に家へ還ると、妻君が敷いてくれた寝所へ入って、酔いのさめた寂しい頭を枕につけた。 東京で家を持つまで、笹村は三、四年住み古した旧の下宿にいた。下宿では古机や本箱がまた物置部屋から取り出されて、口金の錆びたようなランプが、また毎晩彼の目の前に置かれた。坐りつけた二階のその窓先には楓の青葉が初夏の風に戦いでいた。 笹村は行きがかり上、これまで係わっていた仕事を、ようやく真面目に考えるような心持になっていた。机のうえには、新しい外国の作が置かれ、新刊の雑誌なども散らかっていた。彼は買いつけのある大きな紙屋の前に立って、しばらく忘られていた原稿紙を買うと、また新しくその匂いをかぎしめた。 けれど、ざらざらするような下宿の部屋に落ち着いていられなかった笹村は、晩飯の膳を運ぶ女中の草履の音が、廊下にばたばたするころになると、いらいらするような心持で、ふらりと下宿を出て行った。笹村は、大抵これまで行きつけたような場所へ向いて行ったが、どこへ行っても、以前のような興味を見出さなかった。始終遊びつけた家では、相手の女が二月も以前にそこを出て、根岸の方に世帯を持っていた。笹村はがらんとしたその楼の段梯子を踏むのが慵げであった。他の女が占めているその部屋へ入って、長火鉢の傍へ坐ってみても、なつかしいような気もしないのに失望した。聞きなれたこの里の唄や、廊下を歩く女の草履の音を聞いても、心に何の響きも与えられなかった。 「山田君が今度建てた家の一つへ、是非君に入って頂きたいんだがね。」と友達に勧められた時、笹村は悦んで承諾した。
二
その家は、笹村が少年時代の学友であって、頭が悪いのでそのころまでも大学に籍をおいていたK―が、国から少し纏まった金を取り寄せて、東京で永遠の計を立てるつもりで建てた貸家の一つであった。切り拓いた地面に二棟四軒の小体な家が、ようやく壁が乾きかかったばかりで、裏には鉋屑などが、雨に濡れて石炭殻を敷いた湿々する地面に粘り着いていた。 笹村は旅から帰ったばかりで、家を持つについて何の用意も出来なかった。笹村は出京当時世話になったことのある年上の友達が、高等文官試験を受けるとき、その試験料を拵えてやった代りに、遠国へ赴任すると言って置いて行った少しばかりのガラクタが、その男の親類の家に預けてあったことを想い出して、それを一時凌ぎに使うことにした。開ける時キイキイ厭な音のする安箪笥、そんなものは、うんと溜っていた古足袋や、垢のついた着物を捻じ込んで、まだ土の匂いのする六畳の押入れへ、上と下と別々にして押し込んだ。摺り減った当り棒、縁のささくれ立った目笊、絵具の赤々した丼などもあった。 長い間胃弱に苦しんでいた笹村は、旅から持って帰った衣類をどこかで金に換えると、医療機械屋で電気器械を一台買って、その剰余で、こまこましたいろいろのものを、時々提げて帰って来た。 机を据えたのは、玄関横の往来に面した陰気な四畳半であった。向うには、この新開の町へ来てこのごろ開いた小さい酒屋、塩煎餅屋などがあった。筋向いには古くからやっている機械鍛冶もあった。鍛冶屋からは、終日機械をまわす音が、ひっきりなしに聞えて来たが、笹村はそれをうるさいとも思わなかった。 下谷の方から来ていた、よいよいの爺さんは、使い歩行をさせるのも惨めなようで、すぐに罷めてしまった。 「あの書生たちは、自分たちは一日ごろごろ寝転んでいて、この体の不自由な老人を不断に使いやがってしようがない。」 爺さんは破けた股引をはいてよちよち使いあるきに出ながら、肴屋の店へ寄って愚痴をこぼしはじめた。 「あの爺さんしようがないんですよ。それに小汚くてしようがありませんや。」肴屋の若い衆は後で台所口へ来て、そのことを話した。 笹村は黙って苦笑していた。 友達の知合いの家から、じきに婆さんが一人世話をしに来てくれた。 友達の伯母さんが、その女をつれて来たとき、笹村は四畳半でぽかんとしていた。外はもう夏の気勢で、手拭を肩にぶら下げて近所の湯屋から帰って来る、顔の赤いいなせな頭などが突っかけ下駄で通って行くのが、窓の格子にかけた青簾越しに見えた。 婆さんを紹介されると、笹村は、「どうぞよろしく。」と叮寧に会釈をした。 武骨らしいその婆さんは、あまり東京慣れた風もなかったが、すぐに荒れていた台所へ出て、そこらをきちんと取り片づけた。そして友達の伯母さんと一緒に、糠味噌などを拵えてくれた。 晩飯には、青豆などの煮たのが、丼に盛られて餉台のうえに置かれ、几帳面に掃除されたランプの灯も、不断より明るいように思われた。 ここに寝泊りをしていた友達と、笹村はぼつぼつ話をしながら、箸を取っていた。始終胃を気にしていた彼は燻んだような顔をしながら、食べるとあとから腹工合を気遣っていた。 すぐに婆さんに被せる夜の物などが心配になって来た。友達は着ていた蒲団を押入れから引き出して、 「これを着てお寝みなさい。」と二畳の方へ顔を出した。 婆さんは落着きのない風で、鉄板落しの汚い長火鉢の傍に坐って、いつまでも茶を呑んでいた。 「いいえ私は一枚でたくさんでござんす、もう暑ござんすで……。」
Preview chapter第2部Preview
母親が果物の罐詰などを持って、田舎から帰って来てからも、お銀は始終笹村の部屋へばかり入り込んでいた。笹村は女が自分を愛しているとも思わなかったし、自分も女に愛情があるとも思い得なかったが、身の周りの用事で女のしてくれることは、痒いところへ手の届くようであった。男の時々の心持は鋭敏に嗅ぎつけることも出来た。気象もきびきびした方で、不断調子のよい時は、よく駄洒落などを言って人を笑わせた。緊りのない肉づきのいい体、輪廓の素直さと品位とを闕いている、どこか崩れたような顔にも、心を惹きつけられるようなところがあった。笹村の頭には、結婚するつもりで近ごろ先方の写真だけ見たことのある女や、以前大阪で知っていた女などのことが、時々思い出されていたが、不意にどこからか舞い込んで来たこうした種類の女と、爛れ合ったような心持で暮していることを、さほど悔ゆべきこととも思わなかった。 「深山がいさえしなければ、僕だってお前をうっちゃっておくんだった。」笹村は時々そんなことを言った。磯谷と女との以前の関係も、笹村の心を唆る幻影の一つであった。そしてその時の話が出るたびに、いろいろの新しい事実が附け加えられて行った。 「……それがお前の幾歳の時だね。」 「私が十八で、先が二十四……。」 「それから何年間になる。」 「何年間と言ったところで、一緒にいたのは、ほんの時々ですよ。それに私はそのころまだ何にも知らなかったんですから。」 笹村はお銀がそのころ、四ツ谷の方の親類の家から持って来た写真の入った函をひっくらかえして、そのうちからその男の撮影を見出そうとしたが、一枚もないらしかった。中にはお銀が十六、七の時分、伯母と一緒に写した写真などがあった。顎が括れて一癖ありそうな顔も体も不恰好に肥っていた。笹村はそれを高く持ちあげて笑い出した。 母親から帰京の報知の葉書が来た。その葉書は、父親の手蹟であるらしかった。お銀はこれまであまり故郷のことを話さなかったが、父親に対してはあまりいい感情をもっていないようであった。 「私たちも、田舎へ来いって、よくそう言ってよこしますけれど、田舎へ行けば、いずれお百姓の家へ片づかなくちゃなりませんからね。いかに困ったって、私田舎こそ厭ですよ。そのくらいなら、どこへ行ったって、自分一人くらい何をしたって食べて行きますわ。」 お銀は田舎へ流れ込んで行っている叔父の旧の情婦のことを想い出しながら、どうかすると、檻へ入れられたような、ここの家から放たれて行きたいような心持もしていた。磯谷との間が破れて以来、お銀の心持は、ともすると頽れかかろうとしていた。笹村は荒んだお銀の心持を、優しい愛情で慰めるような男ではなかった。お銀を妻とするについても、女をよい方へ導こうとか、自分の生涯を慮うとかいうような心持は、大して持たなかった。 「私がここを出るにしても、あなたのことなど誰にも言やしませんよ。」 女は別れる前に、ある晩笹村と外で飲食いをした帰りに、暗い草原の小逕を歩きながら言った。女は口に楊枝を啣えて、両手で裾をまくしあげていた。 「田舎へも、しばらくは居所を知らさないでおきましょうよ。」 笹村は叢のなかにしゃがんで、惘れたように女の様子を眺めていた。 「そんなに行き詰っているのかね。」 「だけど、もう何だか面倒くさいんですから……。」女は棄て鉢のような言い方をした。 二、三日暴れていた笹村の頭も、その時はもう鎮まりかけていた。自分が女に向ってしていることを静かに考えて見ることも出来た。
十一
母親と顔を突き合わす前に、どうにか体の始末をしようとしていたお銀は、母親が帰って来ても、どうもならずにいた。出て行く支度までして、心細くなってまた考え直すこともあった。この新開町の入口の寺の迹だというところに、田舎の街道にでもありそうな松が、埃を被って立っていた。賑やかなところばかりにいたお銀は、夜その下を通るたびに、歩を迅める癖があったが、ある日暮れ方に、笹村に逐い出されるようにして、そこまで来て彷徨していたこともあった。しかしやはり帰って来ずにはいられなかった。 「失敗ったね。私阿母さんに来ないように一枚葉書を出しておけばよかった。」 母親が帰って来そうな朝、お銀は六畳の寝床の上に蚊帳をはずしかけたまま、ぐッたり坐り込んで思案していた。部屋の隅には疲れたような蚊の鳴き声が聞えた。笹村もその傍に寝転んでいた。 帰って来た母親は、着替えもしずに、笹村の傍へ来て堅苦しく坐りながら挨拶をした。そして田舎の水に中てられて、病気をしたために、帰りの遅くなったいいわけなどをしながら、世のなかにただ一つの力であった一人の弟の死んで行った話などをした。 「親戚は田舎にたくさんござんすが、私の実家は、これでまア綺麗に死に絶えてしまったようなものだで……。」 笹村はくすぐったいような心持で、それに応答をしていた。そして母親の土産に持って来た果物の罐詰を開けて試みなどしていた。 二、三日お銀は、あまり笹村の側へ寄らないようにしていたが、いつまでもそれを続けるわけに行かなかった。 「言いましたよ私……。」 お銀はある時笑いながら笹村に話した。 「阿母さんの方でも大抵解ったんでしょう。」 笹村も待ち設けたことのような気もしたが、やはり今それを言ってしまって欲しくないようにもあった。 仕事の方は、忘れたようになっていた。笹村の頭は、甥が出直して来た時分、また蘇ったようになって来た。甥はしばらくのまにめっきり大人びていた。肩揚げも卸したり、背幅もついて来た。着いた日から、一緒に来た友達を二人も引っ張って来て、飯を食わしたり泊らせたりして田舎語の高声でふざけあっていた。ちょいちょい外から訪ねて来る仲間も、その当分は多かった。 「何を言っているんだか、あの方たちの言うことはさっぱり解りませんよ。」と、お銀はその真似をして、転がって笑った。 「それにお米のまア入ること。まるで御飯のない国から来た人のようなの。」 甥が日ののきに裏の井戸端で、ある日運動シャツなどを洗濯していた。その時分には、連中も落着き場所を見つけて、それぞれ散らばっていた。お銀は手拭を姉さん冠りにして、しばらく不精していた台所の棚のなかなぞを雑巾がけしていた。 「洗濯ぐらいしてやったらどうだ。」仕事に疲れたような笹村は、裏へ出て見るとお銀を詰問するように言った。 「え、だからしてあげますからって、そう言ったんですけれど。」お銀はそんなことぐらいというような顔をして笹村を見あげた。 食べ物などのことで、女のすることに表裏がありはしないかと、始終そんなことを気にしていた笹村は、その時もそれとなく厭味を言った。 「そうですかね。私そんなことはちッとも気がつきませんでした。」女は意外のように、そこへべッたり坐って額に手を当てて考え込んだ。 「そんなことをして、私何の得があるか考えてみて下さい。」お銀は息をはずませながら争った。母親もほどきものをしていた手を休めて、喙を容れた。 そこへ甥と前後して、出京していた家主のK―が裏から入って来た。K―は、ほかの三軒が容易に塞がらないので、帰省して出て来ると、自分で尽頭の一軒を占めることにした。その日もお銀に冬物を行李から出させて、日に干させなどしていた。そして母親が、その世話をすることになっていた。 片耳遠いK―は、立ったまま首を傾げて二人の顔を見比べていた。
Table of contents
Inside this edition
- 01Full text
- 02第1部
- 03第2部
- 04第3部
- 05第4部
- 06第5部
- 07第6部
- 08第7部
- 09第8部
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