
Japanese Edition
Literature
伸子
Japanese BooksWhale Edition by Yuriko Miyamoto
結婚生活と自己の仕事の間で揺れる伸子が、生活の細部を通して自立の意味を問い続ける長編小説。
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Book introduction
伸子
宮本百合子の『伸子』は、若い女性の結婚生活を軸に、愛情と依存、家族の価値観、自分の仕事を持つことの難しさを描く。外国での経験や日々の会話、夫婦の衝突が、主人公の意識の変化と結びついている。個人の成長を単純な成功物語にせず、生活の条件と心の動きを重ねて追う日本語原文の長編小説。
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宮本百合子は1951年没、原作は1926年刊行。青空文庫の日本語原文を使用し、現代の注記・底本情報・別著者の権利未消滅の文章を除く。
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Preview chapter第一部 — 第一節Read preview
伸子は両手を後にまわし、半分明け放した窓枠によりかかりながら室内の光景を眺めていた。
部屋の中央に長方形の大テーブルがあった。シャンデリヤの明りが、そのテーブルの上に散らかっている書類――タイプライタアの紫インクがぼやけた乱暴な厚い綴込、隅を止めたピンがキラキラ光る何かの覚え書――の雑然とした堆積と、それらを挾んで相対し熱心に読み合せをしている二人の男とをくっきり照して、鼠色の絨毯の上へ落ちている。
部屋じゅうを輝かす灯が単調であるとおり、二人の男の仕事も単調でつまらなかった。ホームスパンの服を着た、浅黒い瘠せた男が左手に綴込を持ち、眼をくばり、頁をめくり、どんどん桁の多い数字を読みあげて行く。向い合って、伸子の父の佐々が椅子に浅くかけ、青鉛筆を持って油断なく数字をチェックしていた。彼は品のよい縞の変り襟のついたスモーキング・ジャケットを着けていた。くつろいだなりにも似合わず、彼はもう三十分以上その忙しい、機械的な仕事に没頭しているのであった。
傍観している伸子には、仕事の内容も、今それをしなければならない必要も解っていなかった。彼女がおとなしく窓際にしりぞいて眺めているのは、主として、子供のうちから父の多忙な時決して邪魔はできないものと観念している習慣によるのであった。けれども、彼女はだんだん彼らの活動の調子につりこまれて行った。強くも弱くもならない平らな声が早口に、
「二八七コムマ二六〇。五九三〇三コムマ四二七……」
勤勉な紡※の唸りのようだ。それにつれ、佐々の青鉛筆はほとんど自働機的敏活さでさっさっ、さっさと、細かく几帳面に運動する。そこに自ら独特のリズムが生じた。じっと見守っていると、機械の規則正しい運転が人の心に与える、力強い確乎とした、同時に精力的な亢奮に似たものを感じるのであった。
彼らは一息にふた綴大判の綴込をかたづけた。そして少しのろのろと、三つめの薄い覚え書を読み合せてしまうと佐々は、いかにも重荷の下りた風で、
「やあ、どうも御苦労様でした」
と、頭を下げ椅子をずらした。
あたりには、一時に緊張の緩みが来た。伸子まで何となくほっとし、俄に外界の騒音が自分の背後から幅広く押しよせてくるのを感じた。丁度晩餐後、人の出さかる最中だ。彼女らのいる五階の真下に横たわるブロウドウエイからは、絶間なく流れる無数の人間の跫音、喋り声、笑い声などが溶け合い混り合い、とりとめのない雑音の濃い瓦斯体となってのぼって来た。夜の空まで瀰漫する都会の巨大などよめきを貫いて、キロロロロロ……と自動車の警笛が聞えた。燈柱の下で夕刊を呼び売する子供の「パイパア、パイパア」と云う甲高い声がとぎれとぎれ聞えて来る。――ホームスパンの男は、手早く書類をまとめて自分の黄色い手提げ鞄にしまった。そして、二言三言佐々と話し、伸子に遠くから挨拶すると、遽しく気取って出て行った。佐々は戸口までその男を見送った。
戻って来ると、彼はうまそうに葉巻の煙を吹いた。
「さて――そろそろ出かけますかな」
伸子は窓際を離れ、傍の長椅子に来てかけながら、訊いた。
「ほんとにいらっしゃるつもり?」
「どうして? お前も行くんだろう? そう返事をしてありますよ」
「私――やめたいわ」
「なぜ?」
「くたびれているの。――それに……あまり面白くもなさそうじゃないの」
「ふむ……」
佐々は、暫く黙って自分の吐く煙を眺めていたが、やがて徐ろに云った。
「着物なんぞはそのままで結構なんだからおいで。――行けば何かしら行っただけのことはあるものだ。それに儂のいるうちできるだけ人も知って置かないと、いざという時一人で困るよ」
今夜、彼女は父と二人、日本人の学生倶楽部で催されるある集り、茶話会のようなものに招かれていた。最近故国から来た某文学博士を中心として打ちとけた集りをするという案内を貰っていたのだが、伸子は一向好奇心が起らなかった。彼女自身も紐育には新来の旅客であった。彼女は、午後独りで勝手の不確かな下街に買物に出かけ、神経を疲らせて帰った。夜まで行儀を守って人なかにいなければならないのは、彼女に少しうんざりなのであった。けれども健康で活気がある佐々は、伸子の引っ込み思案を多くの場合うけつけなかった。彼は、六十歳に近い老人と思われない活溌さで、いつも伸子を引き廻した。それには、自分が滞留しているうちに、地理も覚えさせ、交友もこしらえて置いてやろうという心遣いが潜んでいるのは明らかであった。彼は会社の用事で、僅か三箇月ばかり、この都市に来た。彼が帰ってしまえば伸子は独りでいのこる予定であった。彼女は旅行の間、大抵いやでも父が行く処へはついて歩いた。市役所から、ある大銀行の金網の裡で、人間が金貨の山に埋まり血の気のない指で金勘定をしている、空気の流通のわるい暑い部屋の中まで。土地不案内な、これという定った目的ももたない伸子は、また、そうでもしなければ一日が永く、捨てられた石のように退屈したに違いない。――
今も彼女は確かに行きたくはなかった。けれども、父が出たあと、ぽっつり独りでホテルの部屋に十二時頃まで閉じ籠ることを考えると、それもあまりぞっとした役廻りとも思えない。
Preview chapter第二節Preview
丁目がふえるにつれ、人通りが減り、街がさびれてきた。
父娘は、陰気にブラインドのおりた大きな飾窓について角を左へ曲った。表通りから入ると俄に暗く、緩く爪先下りになった鋪道の足許さえよくは見えないようであった。行手の大通り一つ隔てた彼方がハドソン河で、時々鋭い夜の河風が吹きぬけた。リヴァーサイド・パークの葉のない樹木の間に冷たい蒼白さで瓦斯燈がぼんやり灯っているのが見える。
伸子は、寒さと淋しいところへ紛れこんだ気味悪さとで異様な緊張を感じた。彼女は、我知らず強く父親の腕にすがりついた。
「――まるで暗いのね。――見当がおつきになって?」
佐々は、靴の踵の音をさせて歩きながら、絶えず右側の家並に注意を払い、幾分平生と違う圧えつけた音声で答えた。
「もう少し先だろう。――然しこうどれもこれも同じ形の家ばかりではまいるな。もっと街燈でもふやせばいいのに……」
全く、左右には低い鉄柵と三四段の上り口を持った狭い家の入口が、どれもこれも同じ型で幾十となく並んでいた。鋪道のまばらな街燈の光は、一寸奥へ引っ込んだそれらの質素な戸口まで届かない。彼らは、だんだん侘しく感じながら、ほとんど一軒ごとに薄暗い家の入口を覗いて進んだ。大抵いやになった時分、彼らの前に、一つ明るく灯かげの洩れる弓形窓が現れた。カーテンの隙から、内部にちらつく男の立姿や文句の判らない話声が聞えて来る。――
伸子は、父の腕を引いた。
「ここよ!」
佐々は、外廻りを一通り眺め、入口の段を昇った。呼鈴を押した。短い、余韻のない音が直ぐ、扉の彼方で鳴った。伸子は、期待と好奇心を感じた。暗い横通りで変な不安に襲われて来たところなので、彼女にはこの古くさい板硝子のはまった扉の一重彼方が何かの暖かさ楽しさを持っていそうに思われたのであった。すぐ硝子に人影がさした。樫扉は内側に案外滑らかに開いた。扉をあけた男は、彼らを見ると更に入口を広くあけ、改った口調で挨拶した。
「よくいらっしゃって下さいました。――どうぞ……」
佐々は玄関の間に入るとすぐ外套を脱ぎはじめた。伸子は自分の周囲を見廻した。右の壁際に鏡つきの高い帽子掛があった。左側には、葡萄葉の厚肉浮彫のあるベンチが置かれ、その前から二階へ登る緩い階段が見上げられる。奥に重いカーテンで人目を遮った開け放しの室があった。その広間から男声ばかりの、圧力が籠った談笑が響いて来た。その辺一帯頑丈な茶色の樫の円柱や鏡板がつやつやと灯の下で光っているのが、伸子に快適な感銘を与えた。彼女の感覚に新鮮な一種の匂いがその辺に滲みついていた。家具の艶出液のにおい、煙草、羊毛ともう一つ何か乾いた皮製のものから立つようなにおいが皆一つに溶けこんだ、男ばかりの住居らしい匂いだ。
佐々の外套をたすけてぬがすと、扉をあけた男が云った。
「――ではこちらへ、女の方も沢山来ておられますから……」
伸子は軽く頭を下げる拍子にはじめてその男の顔をはっきり見た。彼は白い低いカラアと黒いネクタイと黒い地味な少し手ずれた服を着ていた。陰気な顔だが、円みのある大きい顎が目についた。伸子は、階段を登りながら、
「安川さん、来ていらっしゃいますか」
と訊いた。
三十五六に見えるその男は、持ち前と見える低い調子で答えた。
「来ておられます」
二階へ登り切ると、一つの部屋の戸が半分開いていて中から女の喋り声がした。彼は、
「安川さん」
と声をかけた。
「佐々さんが見えました」
中の話声がぴたりとしずまった。
「まあ! そうですか」
声とともにやや前跼みに大股で、閾の上に安川の姿が現れた。伸子を案内した男は階下へ去った。安川冬子は、伸子がある専門学校に僅の間籍を置いていた時、上級の学生であった。彼女は勤勉な学業の優れた生徒として誰にでも知られていた。伸子は、一二度口を利いたくらいの間であったが、ここでとにかく海の彼方からの友達と云えるのは彼女きりであった。安川は、一年ばかり前からC大学で教育心理学を専攻しているのであった。
安川は、珍しそうにじろじろ伸子を見た。
「噂はきいていたけれど、私は一向外へ出ないから、ちっとも知らなかったわ。よくいらしってね。――いつこちらへ着いて?」
「三週間ばかり前」
安川は、学校時代とちっとも変らない、その変らなさに伸子が驚いたほど同じてきぱきした口調で訊いた。
「お父様と御一緒だって?」
「ええ。腰巾着」
伸子は、自分がこの女性達の前でまるで年少者扱いなのを感じた。
「今夜も下に来ているわ」
「そう。――いいわね。今どこ? お宿は」
「ブレントホテル」
「ああ、私あすこならいつだったか行ったことがありますよ。――皆さんにご紹介しましょうね、こちらは高崎さん――高師をおでになって家政学をやっていらっしゃる。この方は名取さん――音楽がご専門――」
伸子は一人一人に向って克明に頭を下げた。
一通りの挨拶、短い応答が終ると、伸子は失望というか、意外さというか、ぼんやり寥しい心持を感じた。居合せる人の中には一目で何処か好きになれるというような人が一人もいなかった。彼女らは、それぞれ専門もちがい容貌も違ってはいるのだが、誰でもがしっかりものらしいところ、物質にも精神にも多忙で絶えず何かに追い立てられているという余裕のない感じ。それらは、うるおいない身なりとともに、例外ない持ち前であった。伸子は、傍の椅子の上に外套を脱いだ。
Preview chapter第三節Preview
次の朝、伸子はいつもの通り元気を恢復し、爽やかな気分で目覚めた。寝室のカーテンはまだ閉じたままであった。カーテンの僅な隙間から、一本の震える細い金線のような光線が薄暗い部屋に射しこみ、化粧台の上の白粉壺に、小さい燃える炬火のような閃きをつくっている。
彼女は、静かな気持でかけものをはねのけて起き上った。伸子は、首をのばし、彼方の寝床を眺めた。父は先に起きてしまったと見え、床は空であった。
伸子は、枕許の時計を見た。九時半になっている。彼女は、忽ち昨夜の約束を思い出した。――
彼女は、部屋着を羽織り、窓をあけた。今日もよい天気だ。少し靄っぽい空で、朝日が暖かく十月下旬の街路や建物に輝いている。伸子は、格別急ぎもせず顔を洗い、髪を結い、衣服を更えた。彼女は昨夜と同じ、白絹のカラアのついたさっぱりした紺の服で広間へ下りて行った。
朝の広間は澄んで清らかで、大理石の円柱や熱帯植物の鉢植が、埃一つない空気の中に納まっている。
伸子は、人影疎らな広間を見渡した。食堂の入口に近い長椅子に並んで、父と佃とが話している。彼女はまっすぐそっちへ行った。
「やあ、起きたね」
彼女は父に朝の挨拶をした。そして、彼女のために、椅子を引きよせた佃に、
「ゆうべは失礼いたしました」
と云った。
「私こそ失礼いたしました。お疲れになりましたろう」
佐々は佃とは、すぐ話を元に戻した。彼らは、南波武二を尋ねる広告を日本字新聞に出すこと、佃が市の宿泊所の名簿を調べることなどを定めた。
傍で二人の話を聞きながら、伸子は佃がここへ来ても、昨夜彼女の目についた雰囲気を顔や声に持っているのを感じた。その上こうやって相対していると、彼には、彼女の広い、漂っている情感を引きまとめて、狭く何処かに引きつけるようなところがあった。その引きつけられるように感じるものは何なのか。外面的なものでないのは明らかであった。彼の服装は、朝のはっきりした光の中で昨夜にまして気が利いても見えなければ、上等でもなかった。むしろ貧しげであった。容貌にしろ、それは美しき男性という範疇から遠いどころではない、燈火の反映の下で見たより一層陰気であった。それだのに、何故か彼には伸子に好奇心を起させるものがあるのであった。――
話が一段落つくと、佐々は、
「どうです、一緒に茶でも上りませんか。――実は我々もこれから食事をやるところですから」
と佃を誘った。
佃は、一旦辞退したがテーブルについた。伸子は、彼から、日本から来た労働者が浮浪者になる経路や賭博狂のある男の話などをきいた。佃は話下手であった。自分から話題を展開させる性質の男でなかった。彼は、教室に出る時間の都合があると云って、間もなく中座して帰った。
伸子は、十一時前に下街に行く父とホテルを出て、一緒に地下電車の停留場まで行った。そこで別れ、彼女は自分だけ、徒歩で美術館に行った。
土曜、日曜以外館内はひっそりしていた。右のとっつきに、ロダンの作品ばかり集めた一室があった。レムブラントの「花を持てる女」の前で、イタリー人らしい一人の男がそれを模写していた。彼は熱心に、美術家らしくブラウズを着た背をかがめ、原画と自分の画面とを見較べ見較べ細心に、神秘的な原画の素晴らしい色調を出そうと努めているのだが、伸子の眼に彼のカンヴァスは醜怪以外の何ものでもなく映った。ある場所では雑誌の表紙にでも応用するのか、亜拉比亜人が槍を振って躍り上る黒馬に跨っている絵を、石版刷のようにはっきり写している中年の女がいる。伸子は、軽い昼飯を階下の喫茶店ですましあちこち歩き廻った。
もう帰ろうという時、彼女は急にあることを思いつきもう一遍階上へ引きかえした。しばらく迷ったあげく、番人に訊き、伸子は一つの人気ない陳列室に入った。そこは古代波斯の美術品や写本などの陳列室なのであった。
これまで、大ざっぱに土耳古系統の美術品として好んでいた精緻な唐草模様の銀細工、絨毯、碧と黒との釉薬の対照が比類なく美しい陶器などが、皆イラン人の製作であったのに伸子は驚いた。彼女は、特に、入って突当りの広い壁に懸っている装飾瓦に異常な懐しさと興味とを覚えた。貴人行楽の図で、花の咲き満ちた春の樹下に若い貴族の男女が語ってい、侍女が彼方から裳を春風に吹かれながら酒瓶を捧げて来る楽しげな構図だが、王女の下脹れた豊かな頬と云い、大どかな眉と云い、領巾をかついだ服の様子と云い、所謂天平時代の風俗そっくりであった。そればかりではない。一面に咲き乱れた花の愛らしい形から、樹木、飛んでいる鳥の形、しかもそれらを彩るたっぷりした釉薬の黄、紫、緑、碧の見覚えある配色に至るまで、寧楽朝の美術を回想させずには置かないものがある。
Table of contents
Inside this edition
- 01第一部 — 第一節
- 02第二節
- 03第三節
- 04第四節
- 05第五節
- 06第六節
- 07第七節
- 08第八節
- 09第九節
- 10第十節
- 11第二部 — 第一節
- 12第二節
- 13第三節
- 14第四節
- 15第五節
- 16第六節
- 17第七節
- 18第八節
- 19第三部 — 第一節
- 20第二節
- 21第三節
- 22第四節
- 23第五節
- 24第六節
- 25第七節
- 26第八節
- 27第九節
- 28第十節
- 29第十一節
- 30第四部 — 第一節
- 31第二節
- 32第三節
- 33第四節
- 34第五節
- 35第六節
- 36第七節
- 37第八節
- 38第九節
- 39第五部 — 第一節
- 40第二節
- 41第三節
- 42第四節
- 43第五節
- 44第六節
- 45第七節
- 46第八節
- 47第九節
- 48第六部 — 第一節
- 49第二節
- 50第三節
- 51第四節
- 52第五節
- 53第六節
- 54第七節
- 55第八節
- 56第九節
- 57第七部 — 第一節
- 58第二節
- 59第三節
- 60第四節
- 61第五節
- 62第六節
- 63第七節
- 64第八節
- 65第九節
- 66第十節
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