
Japanese Edition
Literature
野分
Japanese BooksWhale Edition by Natsume Sōseki
夏目漱石が教師と青年たちの交わりを通じ、金銭、学問、文学者の独立を問う長編小説。
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Book introduction
野分
文学者の白井道也は、経済的な困難のなかでも自分の信念を曲げずに暮らしている。病を抱える青年の高柳や、裕福な中野との関係を通して、学問と生活、金銭と人格の隔たりが浮かび上がる。夏目漱石が講演と対話を織り交ぜながら、社会に向き合う知識人の姿を描いた全十二章の小説。
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夏目漱石(1916年没)の日本語原作。著作権保護期間を満了した本文の青空文庫テキストを用い、入力者注、底本情報、画像を除いて整理した。
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白井道也は文学者である。
八年前大学を卒業してから田舎の中学を二三箇所流して歩いた末、去年の春飄然と東京へ戻って来た。流すとは門附に用いる言葉で飄然とは徂徠に拘わらぬ意味とも取れる。道也の進退をかく形容するの適否は作者といえども受合わぬ。縺れたる糸の片端も眼を着すればただ一筋の末とあらわるるに過ぎぬ。ただ一筋の出処の裏には十重二十重の因縁が絡んでいるかも知れぬ。鴻雁の北に去りて乙鳥の南に来るさえ、鳥の身になっては相当の弁解があるはずじゃ。
始めて赴任したのは越後のどこかであった。越後は石油の名所である。学校の在る町を四五町隔てて大きな石油会社があった。学校のある町の繁栄は三分二以上この会社の御蔭で維持されている。町のものに取っては幾個の中学校よりもこの石油会社の方が遥かにありがたい。会社の役員は金のある点において紳士である。中学の教師は貧乏なところが下等に見える。この下等な教師と金のある紳士が衝突すれば勝敗は誰が眼にも明かである。道也はある時の演説会で、金力と品性と云う題目のもとに、両者の必ずしも一致せざる理由を説明して、暗に会社の役員らの暴慢と、青年子弟の何らの定見もなくしていたずらに黄白万能主義を信奉するの弊とを戒めた。
役員らは生意気な奴だと云った。町の新聞は無能の教師が高慢な不平を吐くと評した。彼の同僚すら余計な事をして学校の位地を危うくするのは愚だと思った。校長は町と会社との関係を説いて、漫に平地に風波を起すのは得策でないと説諭した。道也の最後に望を属していた生徒すらも、父兄の意見を聞いて、身のほどを知らぬ馬鹿教師と云い出した。道也は飄然として越後を去った。
次に渡ったのは九州である。九州を中断してその北部から工業を除けば九州は白紙となる。炭礦の煙りを浴びて、黒い呼吸をせぬ者は人間の資格はない。垢光りのする背広の上へ蒼い顔を出して、世の中がこうの、社会がああの、未来の国民がなんのかのと白銅一個にさえ換算の出来ぬ不生産的な言説を弄するものに存在の権利のあろうはずがない。権利のないものに存在を許すのは実業家の御慈悲である。無駄口を叩く学者や、蓄音機の代理をする教師が露命をつなぐ月々幾片の紙幣は、どこから湧いてくる。手の掌をぽんと叩けば、自から降る幾億の富の、塵の塵の末を舐めさして、生かして置くのが学者である、文士である、さては教師である。
金の力で活きておりながら、金を誹るのは、生んで貰った親に悪体をつくと同じ事である。その金を作ってくれる実業家を軽んずるなら食わずに死んで見るがいい。死ねるか、死に切れずに降参をするか、試めして見ようと云って抛り出された時、道也はまた飄然と九州を去った。
第三に出現したのは中国辺の田舎である。ここの気風はさほどに猛烈な現金主義ではなかった。ただ土着のものがむやみに幅を利かして、他県のものを外国人と呼ぶ。外国人と呼ぶだけならそれまでであるが、いろいろに手を廻わしてこの外国人を征服しようとする。宴会があれば宴会でひやかす。演説があれば演説であてこする。それから新聞で厭味を並べる。生徒にからかわせる。そうしてそれが何のためでもない。ただ他県のものが自分と同化せぬのが気に懸るからである。同化は社会の要素に違ない。仏蘭西のタルドと云う学者は社会は模倣なりとさえ云うたくらいだ。同化は大切かも知れぬ。その大切さ加減は道也といえども心得ている。心得ているどころではない、高等な教育を受けて、広義な社会観を有している彼は、凡俗以上に同化の功徳を認めている。ただ高いものに同化するか低いものに同化するかが問題である。この問題を解釈しないでいたずらに同化するのは世のためにならぬ。自分から云えば一分が立たぬ。
ある時旧藩主が学校を参観に来た。旧藩主は殿様で華族様である。所のものから云えば神様である。この神様が道也の教室へ這入って来た時、道也は別に意にも留めず授業を継続していた。神様の方では無論挨拶もしなかった。これから事が六ずかしくなった。教場は神聖である。教師が教壇に立って業を授けるのは侍が物の具に身を固めて戦場に臨むようなものである。いくら華族でも旧藩主でも、授業を中絶させる権利はないとは道也の主張であった。この主張のために道也はまた飄然として任地を去った。去る時に土地のものは彼を目して頑愚だと評し合うたそうである。頑愚と云われたる道也はこの嘲罵を背に受けながら飄然として去った。
Preview chapter二Preview
午に逼る秋の日は、頂く帽を透して頭蓋骨のなかさえ朗かならしめたかの感がある。公園のロハ台はそのロハ台たるの故をもってことごとくロハ的に占領されてしまった。高柳君は、どこぞ空いた所はあるまいかと、さっきからちょうど三度日比谷を巡回した。三度巡回して一脚の腰掛も思うように我を迎えないのを発見した時、重そうな足を正門のかたへ向けた。すると反対の方から同年輩の青年が早足に這入って来て、やあと声を掛けた。
「やあ」と高柳君も同じような挨拶をした。
「どこへ行ったんだい」と青年が聞く。
「今ぐるぐる巡って、休もうと思ったが、どこも空いていない。駄目だ、ただで掛けられる所はみんな人が先へかけている。なかなか抜目はないもんだな」
「天気がいいせいだよ。なるほど随分人が出ているね。――おい、あの孟宗藪を回って噴水の方へ行く人を見たまえ」
「どれ。あの女か。君の知ってる人かね」
「知るものか」
「それじゃ何で見る必要があるのだい」
「あの着物の色さ」
「何だか立派なものを着ているじゃないか」
「あの色を竹藪の傍へ持って行くと非常にあざやかに見える。あれは、こう云う透明な秋の日に照らして見ないと引き立たないんだ」
「そうかな」
「そうかなって、君そう感じないか」
「別に感じない。しかし奇麗は奇麗だ」
「ただ奇麗だけじゃ可哀想だ。君はこれから作家になるんだろう」
「そうさ」
「それじゃもう少し感じが鋭敏でなくっちゃ駄目だぜ」
「なに、あんな方は鈍くってもいいんだ。ほかに鋭敏なところが沢山あるんだから」
「ハハハハそう自信があれば結構だ。時に君せっかく逢ったものだから、もう一遍あるこうじゃないか」
「あるくのは、真平だ。これからすぐ電車へ乗って帰えらないと午食を食い損なう」
「その午食を奢ろうじゃないか」
「うん、また今度にしよう」
「なぜ? いやかい」
「厭じゃない――厭じゃないが、始終御馳走にばかりなるから」
「ハハハ遠慮か。まあ来たまえ」と青年は否応なしに高柳君を公園の真中の西洋料理屋へ引っ張り込んで、眺望のいい二階へ陣を取る。
注文の来る間、高柳君は蒼い顔へ両手で突っかい棒をして、さもつかれたと云う風に往来を見ている。青年は独りで「ふんだいぶ広いな」「なかなか繁昌すると見える」「なんだ、妙な所へ姿見の広告などを出して」などと半分口のうちで云うかと思ったら、やがて洋袴の隠袋へ手を入れて「や、しまった。煙草を買ってくるのを忘れた」と大きな声を出した。
「煙草なら、ここにあるよ」と高柳君は「敷島」の袋を白い卓布の上へ抛り出す。
ところへ下女が御誂を持ってくる。煙草に火を点ける間はなかった。
「これは樽麦酒だね。おい君樽麦酒の祝杯を一つ挙げようじゃないか」と青年は琥珀色の底から湧き上がる泡をぐいと飲む。
「何の祝杯を挙げるのだい」と高柳君は一口飲みながら青年に聞いた。
「卒業祝いさ」
「今頃卒業祝いか」と高柳君は手のついた洋盃を下へおろしてしまった。
「卒業は生涯にたった一度しかないんだから、いつまで祝ってもいいさ」
「たった一度しかないんだから祝わないでもいいくらいだ」
「僕とまるで反対だね。――姉さん、このフライは何だい。え? 鮭か。ここん所へ君、このオレンジの露をかけて見たまえ」と青年は人指指と親指の間からちゅうと黄色い汁を鮭の衣の上へ落す。庭の面にはらはらと降る時雨のごとく、すぐ油の中へ吸い込まれてしまった。
「なるほどそうして食うものか。僕は装飾についてるのかと思った」
姿見の札幌麦酒の広告の本に、大きくなって構えていた二人の男が、この時急に大きな破れるような声を出して笑い始めた。高柳君はオレンジをつまんだまま、厭な顔をして二人を見る。二人はいっこう構わない。
「いや行くよ。いつでも行くよ。エヘヘヘヘ。今夜行こう。あんまり気が早い。ハハハハハ」
「エヘヘヘヘ。いえね、実はね、今夜あたり君を誘って繰り出そうと思っていたんだ。え? ハハハハ。なにそれほどでもない。ハハハハ。そら例のが、あれでしょう。だから、どうにもこうにもやり切れないのさ。エヘヘヘヘ、アハハハハハハ」
土鍋の底のような赭い顔が広告の姿見に写って崩れたり、かたまったり、伸びたり縮んだり、傍若無人に動揺している。高柳君は一種異様な厭な眼つきを転じて、相手の青年を見た。
「商人だよ」と青年が小声に云う。
「実業家かな」と高柳君も小声に答えながら、とうとうオレンジを絞るのをやめてしまった。
土鍋の底は、やがて勘定を払って、ついでに下女にからかって、二階を買い切ったような大きな声を出して、そうして出て行った。
「おい中野君」
「むむ?」と青年は鳥の肉を口いっぱい頬張っている。
「あの連中は世の中を何と思ってるだろう」
「何とも思うものかね。ただああやって暮らしているのさ」
「羨やましいな。どうかして――どうもいかんな」
「あんなものが羨しくっちゃ大変だ。そんな考だから卒業祝に同意しないんだろう。さあもう一杯景気よく飲んだ」
「あの人が羨ましいのじゃないが、ああ云う風に余裕があるような身分が羨ましい。いくら卒業したってこう奔命に疲れちゃ、少しも卒業のありがた味はない」
「そうかなあ、僕なんざ嬉しくってたまらないがなあ。我々の生命はこれからだぜ。今からそんな心細い事を云っちゃあしようがない」
「我々の生命はこれからだのに、これから先が覚束ないから厭になってしまうのさ」
「なぜ? 何もそう悲観する必要はないじゃないか、大にやるさ。僕もやる気だ、いっしょにやろう。大に西洋料理でも食って――そらビステキが来た。これでおしまいだよ。君ビステキの生焼は消化がいいって云うぜ。こいつはどうかな」と中野君は洋刀を揮って厚切りの一片を中央から切断した。
「なあるほど、赤い。赤いよ君、見たまえ。血が出るよ」
高柳君は何にも答えずにむしゃむしゃ赤いビステキを食い始めた。いくら赤くてもけっして消化がよさそうには思えなかった。
人にわが不平を訴えんとするとき、わが不平が徹底せぬうち、先方から中途半把な慰藉を与えらるるのは快よくないものだ。わが不平が通じたのか、通じないのか、本当に気の毒がるのか、御世辞に気の毒がるのか分らない。高柳君はビステキの赤さ加減を眺めながら、相手はなぜこう感情が粗大だろうと思った。もう少し切り込みたいと云う矢先へ持って来て、ざああと水を懸けるのが中野君の例である。不親切な人、冷淡な人ならば始めからそれ相応の用意をしてかかるから、いくら冷たくても驚ろく気遣はない。中野君がかような人であったなら、出鼻をはたかれてもさほどに口惜しくはなかったろう。しかし高柳君の眼に映ずる中野輝一は美しい、賢こい、よく人情を解して事理を弁えた秀才である。この秀才が折々この癖を出すのは解しにくい。
Preview chapter三Preview
檜の扉に銀のような瓦を載せた門を這入ると、御影の敷石に水を打って、斜めに十歩ばかり歩ませる。敷石の尽きた所に擦り硝子の開き戸が左右から寂然と鎖されて、秋の更くるに任すがごとく邸内は物静かである。
磨き上げた、柾の柱に象牙の臍をちょっと押すと、しばらくして奥の方から足音が近づいてくる。がちゃと鍵をひねる。玄関の扉は左右に開かれて、下は鏡のようなたたきとなる。右の方に周囲一尺余の朱泥まがいの鉢があって、鉢のなかには棕梠竹が二三本靡くべき風も受けずに、ひそやかに控えている。正面には高さ四尺の金屏に、三条の小鍛冶が、異形のものを相槌に、霊夢に叶う、御門の太刀を丁と打ち、丁と打っている。
取次に出たのは十八九のしとやかな下女である。白井道也と云う名刺を受取ったまま、あの若旦那様で? と聞く。道也先生は首を傾けてちょっと考えた。若旦那にも大旦那にも中野と云う人に逢うのは今が始めてである。ことによるとまるで逢えないで帰るかも計られん。若旦那か大旦那かは逢って始めてわかるのである。あるいは分らないで生涯それぎりになるかも知れない。今まで訪問に出懸けて、年寄か、小供か、跛か、眼っかちか、要領を得る前に門前から追い還された事は何遍もある。追い還されさえしなければ大旦那か若旦那かは問うところでない。しかし聞かれた以上はどっちか片づけなければならん。どうでもいい事を、どうでもよくないように決断しろと逼らるる事は賢者が愚物に対して払う租税である。
「大学を御卒業になった方の……」とまで云ったが、ことによると、おやじも大学を卒業しているかも知れんと心づいたから
「あの文学をおやりになる」と訂正した。下女は何とも云わずに御辞儀をして立って行く。白足袋の裏だけが目立ってよごれて見える。道也先生の頭の上には丸く鉄を鋳抜いた、かな灯籠がぶら下がっている。波に千鳥をすかして、すかした所に紙が張ってある。このなかへ、どうしたら灯がつけられるのかと、先生は仰向いて長い鎖りを眺めながら考えた。
下女がまた出てくる。どうぞこちらへと云う。道也先生は親指の凹んで、前緒のゆるんだ下駄を立派な沓脱へ残して、ひょろ長い糸瓜のようなからだを下女の後ろから運んで行く。
応接間は西洋式に出来ている。丸い卓には、薔薇の花を模様に崩した五六輪を、淡い色で織り出したテーブル掛を、雑作もなく引き被せて、末は同じ色合の絨毯と、続づくがごとく、切れたるがごとく、波を描いて床の上に落ちている。暖炉は塞いだままの一尺前に、二枚折の小屏風を穴隠しに立ててある。窓掛は緞子の海老茶色だから少々全体の装飾上調和を破るようだが、そんな事は道也先生の眼には入らない。先生は生れてからいまだかつてこんな奇麗な室へ這入った事はないのである。
先生は仰いで壁間の額を見た。京の舞子が友禅の振袖に鼓を調べている。今打って、鼓から、白い指が弾き返されたばかりの姿が、小指の先までよくあらわれている。しかし、そんな事に気のつく道也先生ではない。先生はただ気品のない画を掛けたものだと思ったばかりである。向の隅にヌーボー式の書棚があって、美しい洋書の一部が、窓掛の隙間から洩れて射す光線に、金文字の甲羅を干している。なかなか立派である。しかし道也先生これには毫も辟易しなかった。
ところへ中野君が出てくる。紬の綿入に縮緬の兵子帯をぐるぐる巻きつけて、金縁の眼鏡越に、道也先生をまぼしそうに見て、「や、御待たせ申しまして」と椅子へ腰をおろす。
道也先生は、あやしげな、銘仙の上を蔽うに黒木綿の紋付をもってして、嘉平次平の下へ両手を入れたまま、
「どうも御邪魔をします」と挨拶をする。泰然たるものだ。
中野君は挨拶が済んでからも、依然としてまぼしそうにしていたが、やがて思い切った調子で
「あなたが、白井道也とおっしゃるんで」と大なる好奇心をもって聞いた。聞かんでも名刺を見ればわかるはずだ。それをかように聞くのは世馴れぬ文学士だからである。
「はい」と道也先生は落ちついている。中野君のあては外れた。中野君は名刺を見た時はっと思って、頭のなかは追い出された中学校の教師だけになっている。可哀想だと云う念頭に尾羽うち枯らした姿を目前に見て、あなたが、あの中学校で生徒からいじめられた白井さんですかと聞き糺したくてならない。いくら気の毒でも白井違いで気の毒がったのでは役に立たない。気の毒がるためには、聞き糺すためには「あなたが白井道也とおっしゃるんで」と切り出さなくってはならなかった。しかしせっかくの切り出しようも泰然たる「はい」のために無駄死をしてしまった。初心なる文学士は二の句をつぐ元気も作略もないのである。人に同情を寄せたいと思うとき、向が泰然の具足で身を固めていては芝居にはならん。器用なものはこの泰然の一角を針で突き透しても思を遂げる。中野君は好人物ながらそれほどに人を取り扱い得るほど世の中を知らない。
Table of contents
Inside this edition
- 01一
- 02二
- 03三
- 04四
- 05五
- 06六
- 07七
- 08八
- 09九
- 10十
- 11十一
- 12十二
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