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Japanese Edition

Literature

思い出す事など

Japanese BooksWhale Edition by Natsume Sōseki

修善寺での大患と入院生活を振り返り、死の接近、他者の思いやり、記憶の不思議を考える三十三節。

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Book introduction

思い出す事など

『思い出す事など』は、夏目漱石が修善寺での大患とその前後の療養生活を回想した作品です。病床で受け取る便りや周囲の人々の気遣いから、意識、記憶、生命への感覚へと思索が広がります。三十三節の本文に織り込まれた俳句や漢詩も残し、出来事と内省が行き来する原作の構成を保っています。

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夏目漱石は1916年に没し、本作は1910年から1911年にかけて発表された作品です。青空文庫の日本語原文を使用し、ルビ、入力者注、底本情報、図版を除いた本文を収録しています。

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Preview chapter一Read preview

ようやくの事でまた病院まで帰って来た。思い出すとここで暑い朝夕を送ったのももう三カ月の昔になる。その頃は二階の廂から六尺に余るほどの長い葭簀を日除に差し出して、熱りの強い縁側を幾分か暗くしてあった。その縁側に是公から貰った楓の盆栽と、時々人の見舞に持って来てくれる草花などを置いて、退屈も凌ぎ暑さも紛らしていた。向に見える高い宿屋の物干に真裸の男が二人出て、日盛を事ともせず、欄干の上を危なく渡ったり、または細長い横木の上にわざと仰向に寝たりして、ふざけまわる様子を見て自分もいつか一度はもう一遍あんな逞しい体格になって見たいと羨んだ事もあった。今はすべてが過去に化してしまった。再び眼の前に現れぬと云う不慥な点において、夢と同じくはかない過去である。

病院を出る時の余は医師の勧めに従って転地する覚悟はあった。けれども、転地先で再度の病に罹って、寝たまま東京へ戻って来ようとは思わなかった。東京へ戻ってもすぐ自分の家の門は潜らずに釣台に乗ったまま、また当時の病院に落ちつく運命になろうとはなおさら思いがけなかった。

帰る日は立つ修善寺も雨、着く東京も雨であった。扶けられて汽車を下りるときわざわざ出迎えてくれた人の顔は半分も眼に入らなかった。目礼をする事のできたのはその中の二三に過ぎなかった。思うほどの会釈もならないうちに余は早く釣台の上に横えられていた。黄昏の雨を防ぐために釣台には桐油を掛けた。余は坑の底に寝かされたような心持で、時々暗い中で眼を開いた。鼻には桐油の臭がした。耳には桐油を撲つ雨の音と、釣台に付添うて来るらしい人の声が微かながらとぎれとぎれに聞えた。けれども眼には何物も映らなかった。汽車の中で森成さんが枕元の信玄袋の口に挿し込んでくれた大きな野菊の枝は、降りる混雑の際に折れてしまったろう。

釣台に野菊も見えぬ桐油哉

これはその時の光景を後から十七字にちぢめたものである。余はこの釣台に乗ったまま病院の二階へ舁き上げられて、三カ月前に親しんだ白いベッドの上に、安らかに瘠せた手足を延べた。雨の音の多い静かな夜であった。余の病室のある棟には患者が三四名しかいないので、人声も自然絶え勝に、秋は修善寺よりもかえってひっそりしていた。

この静かな宵を心地よく白い毛布の中に二時間ほど送った時、余は看護婦から二通の電報を受取った。一通を開けて見ると「無事御帰京を祝す」と書いてあった。そうしてその差出人は満洲にいる中村是公であった。他の一通を開けて見ると、やはり無事御帰京を祝すと云う文句で、前のと一字の相違もなかった。余は平凡ながらこの暗合を面白く眺めつつ、誰が打ってくれたのだろうと考えて差出人の名前を見た。ところがステトとあるばかりでいっこうに要領を得なかった。ただかけた局が名古屋とあるのでようやく判断がついた。ステトと云うのは、鈴木禎次と鈴木時子の頭文字を組み合わしたもので、妻の妹とその夫の事であった。余は二ツの電報を折り重ねて、明朝また来るべき妻の顔を見たら、まずこの話をしようかと思い定めた。

病室は畳も青かった。襖も張り易えてあった。壁も新に塗ったばかりであった。万居心よく整っていた。杉本副院長が再度修善寺へ診察に来た時、畳替をして待っていますと妻に云い置かれた言葉をすぐに思い出したほど奇麗である。その約束の日から指を折って勘定して見ると、すでに十六七日目になる。青い畳もだいぶ久しく人を待ったらしい。

思いけりすでに幾夜の蟋蟀

その夜から余は当分またこの病院を第二の家とする事にした。

Preview chapter二Preview

病院に帰り着いた十一日の晩、回診の後藤さんにこの頃院長の御病気はどうですかと聞いたら、ええひとしきりはだいぶ好い方でしたが、近来また少し寒くなったものですから……と云う答だったので、余はどうぞ御逢いの節は宜しくと挨拶した。その晩はそれぎり何の気もつかずに寝てしまった。すると明日の朝妻が来て枕元に坐るや否や、実はあなたに隠しておりましたが長与さんは先月五日に亡くなられました。葬式には東さんに代理を頼みました。悪くなったのは八月末ちょうどあなたの危篤だった時分ですと云う。余はこの時始めて附添のものが、院長の訃をことさらに秘して、余に告げなかった事と、またその告げなかった意味とを悟った。そうして生き残る自分やら、死んだ院長やらをとかくに比較して、しばらくは茫然としたまま黙っていた。

院長は今年の春から具合が悪かったので、この前入院した時にも六週間の間ついぞ顔を見合せた事がなかった。余の病気の由を聞いて、それは残念だ、自分が健康でさえあれば治療に尽力して上げるのにと云う言伝があった。その後も副院長を通じて、よろしくと云う言伝が時々あった。

修善寺で病気がぶり返して、社から見舞のため森成さんを特別に頼んでくれた時、着いた森成さんが、病院の都合上とても長くはと云っているその晩に、院長はわざわざ直接森成さんに電報を打って、できるだけ余の便宜を計らってくれた。その文句は寝ている余の目には無論触れなかった。けれども枕元にいる雪鳥君から聞いたその文句の音だけは、いまだに好意の記憶として余の耳に残っている。それは当分その地に留まり、充分看護に心を尽くすべしとか云う、森成さんに取ってはずいぶん厳かに聞える命令的なものであった。

院長の容態が悪くなったのは余の危篤に陥ったのとほぼ同時だそうである。余が鮮血を多量に吐いて傍人からとうてい回復の見込がないように思われた二三日後、森成さんが病院の用事だからと云って、ちょっと東京へ帰ったのは、生前に一度院長に会うためで、それから十日ほど経って、また病院の用事ができて二度東京へ戻ったのは院長の葬式に列するためであったそうである。

当初から余に好意を表して、間接に治療上の心配をしてくれた院長はかくのごとくしだいに死に近づきつつある間に、余は不思議にも命の幅の縮まってほとんど絹糸のごとく細くなった上を、ようやく無難に通り越した。院長の死が一基の墓標で永く確められたとき、辛抱強く骨の上に絡みついていてくれた余の命の根は、辛うじて冷たい骨の周囲に、血の通う新しい細胞を営み初めた。院長の墓の前に供えられる花が、幾度か枯れ、幾度か代って、萩、桔梗、女郎花から白菊と黄菊に秋を進んで来た一カ月余の後、余はまたその一カ月余の間に盛返し得るほどの血潮を皮下に盛得て、再び院長の建てたこの胃腸病院に帰って来た。そうしてその間いまだかつて院長の死んだと云う事を知らなかった。帰る明る朝妻が来て実はこれこれでと話をするまで、院長は余の病気の経過を東京にいて承知しているものと信じていた。そうして回復の上病院を出たら礼にでも行こうと思っていた。もし病院で会えたら篤く謝意でも述べようと思っていた。

逝く人に留まる人に来る雁

考えると余が無事に東京まで帰れたのは天幸である。こうなるのが当り前のように思うのは、いまだに生きているからの悪度胸に過ぎない。生き延びた自分だけを頭に置かずに、命の綱を踏み外した人の有様も思い浮べて、幸福な自分と照らし合せて見ないと、わがありがたさも分らない、人の気の毒さも分らない。

ただ一羽来る夜ありけり月の雁

Preview chapter三Preview

ジェームス教授の訃に接したのは長与院長の死を耳にした明日の朝である。新着の外国雑誌を手にして、五六頁繰って行くうちに、ふと教授の名前が眼にとまったので、また新らしい著書でも公けにしたのか知らんと思いながら読んで見ると、意外にもそれが永眠の報道であった。その雑誌は九月初めのもので、項中には去る日曜日に六十九歳をもって逝かるとあるから、指を折って勘定して見ると、ちょうど院長の容体がしだいに悪い方へ傾いて、傍のものが昼夜眉を顰めている頃である。また余が多量の血を一度に失って、死生の境に彷徨していた頃である。思うに教授の呼息を引き取ったのは、おそらく余の命が、瘠せこけた手頸に、有るとも無いとも片付かない脈を打たして、看護の人をはらはらさせていた日であろう。

教授の最後の著書「多元的宇宙」を読み出したのは今年の夏の事である。修善寺へ立つとき、向へ持って行って読み残した分を片付けようと思って、それを五六巻の書物とともに鞄の中に入れた。ところが着いた明日から心持が悪くて、出歩く事もならない始末になった。けれども宿の二階に寝転びながら、一日二日は少しずつでも前の続きを読む事ができた。無論病勢の募るに伴れて読書は全く廃さなければならなくなったので、教授の死ぬ日まで教授の書を再び手に取る機会はなかった。

病牀にありながら、三たび教授の多元的宇宙を取り上げたのは、教授が死んでから幾日目になるだろう。今から顧みると当時の余は恐ろしく衰弱していた。仰向に寝て、両方の肘を蒲団に支えて、あのくらいの本を持ち応えているのにずいぶんと骨が折れた。五分と経たないうちに、貧血の結果手が麻痺れるので、持ち直して見たり、甲を撫でて見たりした。けれども頭は比較的疲れていなかったと見えて、書いてある事は苦もなく会得ができた。頭だけはもう使えるなと云う自信の出たのは大吐血以後この時が始てであった。嬉しいので、妻を呼んで、身体の割に頭は丈夫なものだねと云って訳を話すと、妻がいったいあなたの頭は丈夫過ぎます。あの危篤かった二三日の間などは取り扱い悪くて大変弱らせられましたと答えた。

多元的宇宙は約半分ほど残っていたのを、三日ばかりで面白く読み了った。ことに文学者たる自分の立場から見て、教授が何事によらず具体的の事実を土台として、類推で哲学の領分に切り込んで行く所を面白く読み了った。余はあながちに弁証法を嫌うものではない。また妄りに理知主義を厭いもしない。ただ自分の平生文学上に抱いている意見と、教授の哲学について主張するところの考とが、親しい気脈を通じて彼此相倚るような心持がしたのを愉快に思ったのである。ことに教授が仏蘭西の学者ベルグソンの説を紹介する辺りを、坂に車を転がすような勢で馳け抜けたのは、まだ血液の充分に通いもせぬ余の頭に取って、どのくらい嬉しかったか分らない。余が教授の文章にいたく推服したのはこの時である。

今でも覚えている。一間おいて隣にいる東君をわざわざ枕元へ呼んで、ジェームスは実に能文家だと教えるように云って聞かした。その時東君は別にこれという明暸な答をしなかったので、余は、君、西洋人の書物を読んで、この人のは流暢だとか、あの人のは細緻だとか、すべて特色のあるところがその書きぶりで、読みながら解るかいと失敬な事を問い糺した。

教授の兄弟にあたるヘンリーは、有名な小説家で、非常に難渋な文章を書く男である。ヘンリーは哲学のような小説を書き、ウィリアムは小説のような哲学を書く、と世間で云われているくらいヘンリーは読みづらく、またそのくらい教授は読みやすくて明快なのである。――病中の日記を検べて見ると九月二十三日の部に、「午前ジェームスを読み了る。好い本を読んだと思う」と覚束ない文字で認めてある。名前や標題に欺されて下らない本を読んだ時ほど残念な事はない。この日記は正にこの裏を云ったものである。

余の病気について治療上いろいろ好意を表してくれた長与病院長は、余の知らない間にいつか死んでいた。余の病中に、空漠なる余の頭に陸離の光彩を抛げ込んでくれたジェームス教授も余の知らない間にいつか死んでいた。二人に謝すべき余はただ一人生き残っている。

菊の雨われに閑ある病哉

菊の色縁に未し此晨

(ジェームス教授の哲学思想が、文学の方面より見て、どう面白いかここに詳説する余地がないのは余の遺憾とするところである。また教授の深く推賞したベルグソンの著書のうち第一巻は昨今ようやく英訳になってゾンネンシャインから出版された。その標題は Time and Free Will(時と自由意思)と名づけてある。著者の立場は無論故教授と同じく反理知派である。)

Table of contents

Inside this edition

  1. 01一
  2. 02二
  3. 03三
  4. 04四
  5. 05五
  6. 06六
  7. 07七
  8. 08八
  9. 09九
  10. 10十
  11. 11十一
  12. 12十二
  13. 13十三
  14. 14十四
  15. 15十五
  16. 16十六
  17. 17十七
  18. 18十八
  19. 19十九
  20. 20二十
  21. 21二十一
  22. 22二十二
  23. 23二十三
  24. 24二十四
  25. 25二十五
  26. 26二十六
  27. 27二十七
  28. 28二十八
  29. 29二十九
  30. 30三十
  31. 31三十一
  32. 32三十二
  33. 33三十三

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