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桜の実の熟する時 cover

Japanese Edition

Literature

桜の実の熟する時

Japanese BooksWhale Edition by 島崎藤村

岸本捨吉の若い日々を通して、文学への志、家族との関係、恋愛と自立の揺らぎを描く島崎藤村の長編。

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Book introduction

桜の実の熟する時

島崎藤村『桜の実の熟する時』は、青年・岸本捨吉が周囲の人々や文学に出会いながら、自らの生き方を探す長編小説です。家族の記憶、学びと仕事、恋愛の経験が、若い心の戸惑いと結びついて描かれます。巻頭の文章と十二章を収録し、情景の細部を通して内面を示す藤村の語りを日本語原文で読めます。

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This edition is based on a public domain text and has been prepared for digital reading by BooksWhale.

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島崎藤村は1943年に没し、本作は1913年から1918年にかけて発表された作品です。青空文庫の日本語原文を使用し、ルビ、入力者注、底本情報、図版を除いた本文を収録しています。

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Preview chapter序Read preview

思わず彼は拾い上げた桜の実を嗅いで見て、お伽話の情調を味った。

それを若い日の幸福のしるしという風に想像して見た。

これは自分の著作の中で、年若き読者に勧めて見たいと思うものの一つだ。私は浅草新片町にあった家の方でこれを起稿し、巴里ポオル・ロワイアル並木街の客舎へも持って行って書き、仏国中部リモオジュの客舎でも書き、その後帰国してこの稿を完成した。この書は私に取って長い旅の記念だ。

Preview chapter一Preview

日蔭に成った坂に添うて、岸本捨吉は品川の停車場手前から高輪へ通う抜け道を上って行った。客を載せた一台の俥が坂の下の方から同じように上って来る気勢がした。石塊に触れる車輪の音をさせて。

思わず捨吉は振返って見て、

「お繁さんじゃないか」

と自分で自分に言った。

一目見たばかりで直にそれが覚られた。過ぐる一年あまりの間、なるべく捨吉の方から遠ざかるようにし、逢わないことを望んでいた人だ。その人が俥で近づいた。避けよう避けようとしていたある瞬間が思いがけなくも遣って来たかのように。

ある終局を待受けるにも等しい胸のわくわくする心地で、捨吉は徐々と自分の方へ近づいて来る俥の音を聞いた。迫った岡はその辺で谷間のような地勢を成して、更に勾配の急な傾斜の方へと続いて行っている。丁度他に往来の人も見えなかった。彼は古い桑の木なぞの手入もされずに立っている路の片側を択って歩いた。出来ることなら、そこに自分を隠したいと願った。進めば進むほど道幅は狭く成っている。俥は否でも応でも彼の側を通る。彼は桑の木の方へ向いて、根元のあたりに生い茂った新しい草の緑を眺めるともなく眺めて、そこで俥の通過ぐるのを待った。曽ては親しかった人の見るに任せながら、あだかも路傍の人のようにして立っていた。

カタ、コトという音をさせて俥は徐やかに彼の背後を通過ぎて行った。

まだ年の若い捨吉は曽て経験したことも無いような位置に立たせられたことを感じた。眺めていた路傍の草の色は妙に彼の眼に浸みた。最早彼は俥と自分との間にある可成な隔りを見ることが出来た。深く陥没んだ地勢に添うて折れ曲って行っている一筋の細い道が見える。片側の藪の根キに寄りながら鬱蒼とした樹木の下を動いて行く俥が見える。繁子は白い肩掛に身を包んで何事かを沈思するように唯俯向いたままで乗って行った。

捨吉から見れば五つばかりも年上なこの若い婦人と彼との親しみは凡そ一年も続いたろうか。彼女の話し掛ける言葉や動作は何がなしに捨吉の心を誘った。旧い日本の習慣に無い青年男女の交際というものを教えたのも彼女だ。初めて女の手紙というものをくれたのも彼女だ。それらの温情、それらの親切は長いこと彼に続いて来た少年らしい頑固な無関心を撫で柔げた。夕方にでもなると彼の足はよくこの姉らしい人の許へ向いた。多くの朋輩の学生と同じように、彼も霜降の制服のすこし緑色がかったのを着て、胸のあたりに金釦を光らせながら、そよそよと吹いて来る心地の好い風の中を通って行った。星の光る空の下には、ある亜米利加人の女教師が住む建物がある。構内には繁子の監督している小さな寄宿舎がある。その寄宿舎の入口で、玄関で、時にはまだ年のいかない女生徒なぞを伴いながら出て来る繁子とさまざまな話をして、わずかばかりの黄昏時を一緒に送るのを楽みとした。繁子は編物の好きな女で、自分の好みに成った手袋を造ってくれると言って、彼の前で長い毛糸の針を動して、話し話しそれを彼に編んで見せたことも有る。

彼は再び繁子に近づくまいと心に誓っていた。仮令途中で擦れ違う機会が有ってもなるべく顔を合せないようにして、もし遠くからでも見つけようものなら直に横町の方へ曲って了うようにしていた。この避けがたい、しかも偶然な邂逅は再び近づくまいと思う婦人に逢って了った。

繁子を載せた俥は丁度勾配の急な坂にかかって、右へ廻り、左へ廻り、崖の間の細い道を僅かばかりずつ動いて上って行った。

岡の上へ捨吉が出た頃は最早繁子の俥は見えなかった。その道は一方御殿山へ続き、一方は奥平の古い邸について迂回して高輪の通りへ続いている。その広い邸内を自由に通り抜けて行くことも出来る。捨吉は後の方の道を取った。

思いがけなくも繁子に遇った時の心地は彼女が見えなくなった後まで捨吉の胸を騒がせた。彼女を載せた俥が無言のままで背後を通過ぎて行ったことは、顔を見合せるにも勝り、挨拶するにも勝って一層ヒヤリとさせるものを残した。彼女の身を包んでいた、多分自分で編んだ、あの初夏らしい白い肩掛は深く鮮やかに彼の眼に残った。

葬り去りたい過去の記憶――出来る事なら、眼前の新緑が去年の古い朽葉を葬り隠す様に――それらのさまざまな記憶が堪らなくかれの胸に浮んだ。繁子のことにつれて、もう一人の婦人のことも連がって浮んで来た。丁度、繁子と同じ程の年配で、同じようにある学校で教えていた人だ。玉子というのがその人の名だ。玉子は繁子に無いものを補うような、何処か邪気ないところを有つ人だった。彼はこの若い年長の婦人から自分の才能を褒められたことを思出した。「何卒、これから御手紙を寄して下さい」と言われたことを思出した。他に二人の婦人の連もあって、玉子と共に品川の海へ船を浮べた時のことを思出した。その帰途に玉子と一緒に二人乗の俥に載せられたことを思出した。その俥の上でこの御殿山の通路を夢のように揺られて行ったことを思出した。玉子は間もなく学校を辞めて神戸の方へ帰って行ったから、この婦人との親しみは半歳とは続かなかったが、神戸から一二度手紙を貰ったことを思出した。その手紙の中には高輪時代の楽しかったことを追想し、一緒に品川の海へ出て遊んだ時のことを追想して、女の人から初めて聞く甘い私語のような言葉の書いてあったことを思出した。

Preview chapter二Preview

暑中休暇が来て見ると、彼方へ飛び是方へ飛びしていた小鳥が木の枝へ戻って来たように、学窓で暮した月日のことが捨吉の胸に集って来た。その一夏をいかに送ろうかと思う心地に混って。彼はこれから帰って行こうとする家の方で、自分のために心配し、自分を待受けていてくれる恩人の家族――田辺の主人、細君、それから、お婆さんのことなぞを考えた。田辺の家に近く下宿住居する兄の民助のことをも考えた。それらの目上の人達からまだ子供のように思われている間に、彼の内部に萌した若い生命の芽は早筍のように頭を持上げて来た。自分を責めて、責めて、責め抜いた残酷たらしさ――沈黙を守ろうと思い立つように成った心の悶え――狂じみた真似――同窓の学友にすら話しもせずにあるその日までの心の戦いを自分の目上の人達がどうして知ろう、繁子や玉子のような基督教主義の学校を出た婦人があって青年男女の交際を結んだ時があったなぞとはどうして知ろうと想って見た。まだ世間見ずの捨吉には凡てが心に驚かれることばかりで有った。今々この世の中へ生れて来たかのような心持でもって、現に自分の仕ていることを考えて見ると、何時の間にか彼は目上の人達の知らない道を自分勝手に歩き出しているということに気が着いた。彼はその心地から言いあらわし難い恐怖を感じた。

七月らしい夏の雨が寄宿舎の窓へ来た。荷物を片付けて寄宿舎を離れようとしていた青年等はいずれも遽かに夕立の通過ぎるのを待った。

明治もまだ若い二十年代であった。東京の市内には電車というものも無い頃であった。学校から田辺の家までは凡そ二里ばかりあるが、それ位の道を歩いて通うことは一書生の身に取って何でも無かった。よく捨吉は岡つづきの地勢に添うて古い寺や墓地の沢山にある三光町寄の谷間を迂回することもあり、あるいは高輪の通を真直に聖坂へと取って、それから遠く下町の方にある家を指して降りて行く。その日は伊皿子坂の下で乗合馬車を待つ積りで、昼飯を済ますと直ぐ寄宿舎を出掛けた。夕立揚句の道は午後の日に乾いて一層熱かった。けれども最早暑中休暇だと思うと、何となく楽しい道を帰って行くような心持に成った。何かこう遠い先の方で自分等を待受けていてくれるものが有る。こういう翹望はあだかもそれが現在の歓喜であるかの如くにも感ぜられた。彼は自分自身の遽かな成長を、急に高くなった身長を、急に発達した手足を、自分の身に強く感ずるばかりでなく、恩人の家の方で、もしくはその周囲で、自分と同じように揃って大きくなって行く若い人達のあることを感じた。就中、まだ小娘のように思われていた人達が遽かに姉さんらしく成って来たには驚かされる。そういう人達の中には大伝馬町の大勝の娘、それから竈河岸の樽屋の娘なぞを数えることが出来る。大勝とは捨吉が恩人の田辺や民助の兄に取っての主人筋に当り、樽屋の人達はよく田辺の家と往来をしている。あの樽屋の内儀さんが自慢の娘のまだ初々しい鬘下地なぞに結って踊の師匠の許へ通っていた頃の髪が何時の間にか島田に結い変えられたその姉さんらしい額つきを捨吉は想像で見ることが出来た。彼は又、あの大伝馬町辺の奥深い商家で生長った大勝の主人の秘蔵娘の白いきゃしゃな娘らしい手を想像で見ることが出来た。

新橋で乗換えた乗合馬車は日本橋小伝馬町まで捨吉を乗せて行った。日に光る甍、黒い蔵造りの家々、古い新しい紺暖簾は行く先に見られる。その辺は大勝の店のあるあたりに近い。田辺のお婆さんがよく噂して捨吉に話し聞かせる石町の御隠居、一代の豪奢を極め尽したというあの年とった婦人が住む古い大きな商家のあるあたりにも近い。一体、田辺の主人はまだ捨吉が少年であった頃、石町の御隠居の家の整理を依頼された縁故から、同じ一族の大勝の主人に知られ、それから次第に取付き、商法も手広くやり、芝居の方へも金を廻し、「田辺さん」と言えば大分その道の人に顔を知られるように成ったのである。この恩人が骨の折れた苦しい時代から少年の身を寄せ、親戚では無いまでも主人のことを小父さんと呼び、細君のことを姉さんと呼び(細君を小母さんと言うにはあまりに若く、それほど主人と年が違っていたから)そんな風に殆んど家族のものも同様にして捨吉は育って来た。田辺の家の昔に比べると、今はすべての事が皆の思い通りに進みつつある。それが捨吉にも想像される。人形町の賑かな通を歩いて行って、やがて彼は久松橋の畔へ出た。町中を流れる黒ずんだ水が見える。空樽を担いで陸から荷舟へ通う人が見える。竈河岸に添うて斜に樽屋の店も見える。何もかも捨吉に取っては親しみの深いものばかりだ。明治座は閉っている頃で、軒を並べた芝居茶屋まで夏季らしくひっそりとしていた。

Table of contents

Inside this edition

  1. 01序
  2. 02一
  3. 03二
  4. 04三
  5. 05四
  6. 06五
  7. 07六
  8. 08七
  9. 09八
  10. 10九
  11. 11十
  12. 12十一
  13. 13十二

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