
Japanese Edition
History
渋江抽斎
Japanese BooksWhale Edition by Mori Ogai
幕末の医師渋江抽斎とその家族の歩みを、史料と人物のつながりからたどる森鴎外の史伝。
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Book introduction
渋江抽斎
弘前藩の医師であり考証家でもあった渋江抽斎の生涯を、家族、学問、交友関係とともに描く。森鴎外は書物や記録を手がかりに、江戸から明治へ続く人々の暮らしを細やかにたどっていく。百十九の節から成る本文は、一人の伝記を越えて、その周囲に広がる時代と知的交流を浮かび上がらせる。
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森鴎外は1922年没。本作は1916年発表。青空文庫の日本語原文を用い、底本案内、入力者注、ルビなどの付加情報を除いて本文を収録した。
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Preview chapterその一Read preview
三十七年如一瞬。学医伝業薄才伸。栄枯窮達任天命。安楽換銭不患貧。これは渋江抽斎の述志の詩である。想うに天保十二年の暮に作ったものであろう。弘前の城主津軽順承の定府の医官で、当時近習詰になっていた。しかし隠居附にせられて、主に柳島にあった信順の館へ出仕することになっていた。父允成が致仕して、家督相続をしてから十九年、母岩田氏縫を喪ってから十二年、父を失ってから四年になっている。三度目の妻岡西氏徳と長男恒善、長女純、二男優善とが家族で、五人暮しである。主人が三十七、妻が三十二、長男が十六、長女が十一、二男が七つである。邸は神田弁慶橋にあった。知行は三百石である。しかし抽斎は心を潜めて古代の医書を読むことが好で、技を售ろうという念がないから、知行より外の収入は殆どなかっただろう。ただ津軽家の秘方一粒金丹というものを製して売ることを許されていたので、若干の利益はあった。
抽斎は自ら奉ずること極めて薄い人であった。酒は全く飲まなかったが、四年前に先代の藩主信順に扈随して弘前に往って、翌年まで寒国にいたので、晩酌をするようになった。煙草は終生喫まなかった。遊山などもしない。時々採薬に小旅行をする位に過ぎない。ただ好劇家で劇場にはしばしば出入したが、それも同好の人々と一しょに平土間を買って行くことに極めていた。この連中を周茂叔連と称えたのは、廉を愛するという意味であったそうである。
抽斎は金を何に費やしたか。恐らくは書を購うと客を養うとの二つの外に出でなかっただろう。渋江家は代々学医であったから、父祖の手沢を存じている書籍が少くなかっただろうが、現に『経籍訪古志』に載っている書目を見ても抽斎が書を買うために貲を惜まなかったことは想い遣られる。
抽斎の家には食客が絶えなかった。少いときは二、三人、多いときは十余人だったそうである。大抵諸生の中で、志があり才があって自ら給せざるものを選んで、寄食を許していたのだろう。
抽斎は詩に貧を説いている。その貧がどんな程度のものであったかということは、ほぼ以上の事実から推測することが出来る。この詩を瞥見すれば、抽斎はその貧に安んじて、自家の材能を父祖伝来の医業の上に施していたかとも思われよう。しかし私は抽斎の不平が二十八字の底に隠されてあるのを見ずにはいられない。試みに看るが好い。一瞬の如くに過ぎ去った四十年足らずの月日を顧みた第一の句は、第二の薄才伸を以て妥に承けられるはずがない。伸るというのは反語でなくてはならない。老驥櫪に伏すれども、志千里にありという意がこの中に蔵せられている。第三もまた同じ事である。作者は天命に任せるとはいっているが、意を栄達に絶っているのではなさそうである。さて第四に至って、作者はその貧を患えずに、安楽を得ているといっている。これも反語であろうか。いや。そうではない。久しく修養を積んで、内に恃む所のある作者は、身を困苦の中に屈していて、志はいまだ伸びないでもそこに安楽を得ていたのであろう。
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抽斎はこの詩を作ってから三年の後、弘化元年に躋寿館の講師になった。躋寿館は明和二年に多紀玉池が佐久間町の天文台址に立てた医学校で、寛政三年に幕府の管轄に移されたものである。抽斎が講師になった時には、もう玉池が死に、子藍渓、孫桂山、曾孫柳沜が死に、玄孫暁湖の代になっていた。抽斎と親しかった桂山の二男茝庭は、分家して館に勤めていたのである。今の制度に較べて見れば、抽斎は帝国大学医科大学の教職に任ぜられたようなものである。これと同時に抽斎は式日に登城することになり、次いで嘉永二年に将軍家慶に謁見して、いわゆる目見以上の身分になった。これは抽斎の四十五歳の時で、その才が伸びたということは、この時に至って始て言うことが出来たであろう。しかし貧窮は旧に依っていたらしい。幕府からは嘉永三年以後十五人扶持出ることになり、安政元年にまた職務俸の如き性質の五人扶持が給せられ、年末ごとに賞銀五両が渡されたが、新しい身分のために生ずる費用は、これを以て償うことは出来なかった。謁見の年には、当時の抽斎の妻山内氏五百が、衣類や装飾品を売って費用に充てたそうである。五百は徳が亡くなった後に抽斎の納れた四人目の妻である。
抽斎の述志の詩は、今わたくしが中村不折さんに書いてもらって、居間に懸けている。わたくしはこの頃抽斎を敬慕する余りに、この幅を作らせたのである。
抽斎は現に広く世間に知られている人物ではない。偶少数の人が知っているのは、それは『経籍訪古志』の著者の一人として知っているのである。多方面であった抽斎には、本業の医学に関するものを始として、哲学に関するもの、芸術に関するもの等、許多の著述がある。しかし安政五年に抽斎が五十四歳で亡くなるまでに、脱稿しなかったものもある。また既に成った書も、当時は書籍を刊行するということが容易でなかったので、世に公にせられなかった。
抽斎の著した書で、存命中に印行せられたのは、ただ『護痘要法』一部のみである。これは種痘術のまだ広く行われなかった当時、医中の先覚者がこの恐るべき伝染病のために作った数種の書の一つで、抽斎は術を池田京水に受けて記述したのである。これを除いては、ここに数え挙げるのも可笑しいほどの『四つの海』という長唄の本があるに過ぎない。但しこれは当時作者が自家の体面をいたわって、贔屓にしている富士田千蔵の名で公にしたのだが、今は憚るには及ぶまい。『四つの海』は今なお杵屋の一派では用いている謡物の一つで、これも抽斎が多方面であったということを証するに足る作である。
然らば世に多少知られている『経籍訪古志』はどうであるか。これは抽斎の考証学の方面を代表すべき著述で、森枳園と分担して書いたものであるが、これを上梓することは出来なかった。そのうち支那公使館にいた楊守敬がその写本を手に入れ、それを姚子梁が公使徐承祖に見せたので、徐承祖が序文を書いて刊行させることになった。その時幸に森がまだ生存していて、校正したのである。
世間に多少抽斎を知っている人のあるのは、この支那人の手で刊行せられた『経籍訪古志』があるからである。しかしわたくしはこれに依って抽斎を知ったのではない。
わたくしは少い時から多読の癖があって、随分多く書を買う。わたくしの俸銭の大部分は内地の書肆と、ベルリン、パリイの書估との手に入ってしまう。しかしわたくしはかつて珍本を求めたことがない。或る時ドイツのバルテルスの『文学史』の序を読むと、バルテルスが多く書を読もうとして、廉価の本を渉猟し、『文学史』に引用した諸家の書も、大抵レクラム版の書に過ぎないといってあった。わたくしはこれを読んで私かに殊域同嗜の人を獲たと思った。それゆえわたくしは漢籍においても宋槧本とか元槧本とかいうものを顧みない。『経籍訪古志』は余りわたくしの用に立たない。わたくしはその著者が渋江と森とであったことをも忘れていたのである。
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わたくしの抽斎を知ったのは奇縁である。わたくしは医者になって大学を出た。そして官吏になった。然るに少い時から文を作ることを好んでいたので、いつの間にやら文士の列に加えられることになった。その文章の題材を、種々の周囲の状況のために、過去に求めるようになってから、わたくしは徳川時代の事蹟を捜った。そこに「武鑑」を検する必要が生じた。
「武鑑」は、わたくしの見る所によれば、徳川史を窮むるに闕くべからざる史料である。然るに公開せられている図書館では、年を逐って発行せられた「武鑑」を集めていない。これは「武鑑」、殊に寛文頃より古い類書は、諸侯の事を記するに誤謬が多くて、信じがたいので、措いて顧みないのかも知れない。しかし「武鑑」の成立を考えて見れば、この誤謬の多いのは当然で、それはまた他書によって正すことが容易である。さて誤謬は誤謬として、記載の全体を観察すれば、徳川時代の某年某月の現在人物等を断面的に知るには、これに優る史料はない。そこでわたくしは自ら「武鑑」を蒐集することに着手した。
この蒐集の間に、わたくしは「弘前医官渋江氏蔵書記」という朱印のある本に度々出逢って、中には買い入れたのもある。わたくしはこれによって弘前の官医で渋江という人が、多く「武鑑」を蔵していたということを、先ず知った。
そのうち「武鑑」というものは、いつから始まって、最も古いもので現存しているのはいつの本かという問題が生じた。それを決するには、どれだけの種類の書を「武鑑」の中に数えるかという、「武鑑」のデフィニションを極めて掛からなくてはならない。
それにはわたくしは『足利武鑑』、『織田武鑑』、『豊臣武鑑』というような、後の人のレコンストリュクションによって作られた書を最初に除く。次に『群書類従』にあるような分限帳の類を除く。そうすると跡に、時代の古いものでは、「御馬印揃」、「御紋尽」、「御屋敷附」の類が残って、それがやや形を整えた「江戸鑑」となり、「江戸鑑」は直ちに後のいわゆる「武鑑」に接続するのである。
わたくしは現に蒐集中であるから、わたくしの「武鑑」に対する知識は日々変って行く。しかし今知っている限を言えば、馬印揃や紋尽は寛永中からあったが、当時のものは今存じていない。その存じているのは後に改板したものである。ただ一つここに姑く問題外として置きたいものがある。それは沼田頼輔さんが最古の「武鑑」として報告した、鎌田氏の『治代普顕記』中の記載である。沼田さんは西洋で特殊な史料として研究せられているエラルヂックを、我国に興そうとしているものと見えて、紋章を研究している。そしてこの目的を以て「武鑑」をあさるうちに、土佐の鎌田氏が寛永十一年の一万石以上の諸侯を記載したのを発見した。即ち『治代普顕記』の一節である。沼田さんは幸にわたくしに謄写を許したから、わたくしは近いうちにこの記載を精検しようと思っている。
そんなら今に迨るまでに、わたくしの見た最古の「武鑑」乃至その類書は何かというと、それは正保二年に作った江戸の「屋敷附」である。これは殆ど完全に保存せられた板本で、末に正保四年と刻してある。ただ題号を刻した紙が失われたので、恣に命じた名が表紙に書いてある。この本が正保四年と刻してあっても、実は正保二年に作ったものだという証拠は、巻中に数カ条あるが、試みにその一つを言えば、正保二年十二月二日に歿した細川三斎が三斎老として挙げてあって、またその第を諸邸宅のオリアンタションのために引合に出してある事である。この本は東京帝国大学図書館にある。
Table of contents
Inside this edition
- 01その一
- 02その二
- 03その三
- 04その四
- 05その五
- 06その六
- 07その七
- 08その八
- 09その九
- 10その十
- 11その十一
- 12その十二
- 13その十三
- 14その十四
- 15その十五
- 16その十六
- 17その十七
- 18その十八
- 19その十九
- 20その二十
- 21その二十一
- 22その二十二
- 23その二十三
- 24その二十四
- 25その二十五
- 26その二十六
- 27その二十七
- 28その二十八
- 29その二十九
- 30その三十
- 31その三十一
- 32その三十二
- 33その三十三
- 34その三十四
- 35その三十五
- 36その三十六
- 37その三十七
- 38その三十八
- 39その三十九
- 40その四十
- 41その四十一
- 42その四十二
- 43その四十三
- 44その四十四
- 45その四十五
- 46その四十六
- 47その四十七
- 48その四十八
- 49その四十九
- 50その五十
- 51その五十一
- 52その五十二
- 53その五十三
- 54その五十四
- 55その五十五
- 56その五十六
- 57その五十七
- 58その五十八
- 59その五十九
- 60その六十
- 61その六十一
- 62その六十二
- 63その六十三
- 64その六十四
- 65その六十五
- 66その六十六
- 67その六十七
- 68その六十八
- 69その六十九
- 70その七十
- 71その七十一
- 72その七十二
- 73その七十三
- 74その七十四
- 75その七十五
- 76その七十六
- 77その七十七
- 78その七十八
- 79その七十九
- 80その八十
- 81その八十一
- 82その八十二
- 83その八十三
- 84その八十四
- 85その八十五
- 86その八十六
- 87その八十七
- 88その八十八
- 89その八十九
- 90その九十
- 91その九十一
- 92その九十二
- 93その九十三
- 94その九十四
- 95その九十五
- 96その九十六
- 97その九十七
- 98その九十八
- 99その九十九
- 100その百
- 101その百一
- 102その百二
- 103その百三
- 104その百四
- 105その百五
- 106その百六
- 107その百七
- 108その百八
- 109その百九
- 110その百十
- 111その百十一
- 112その百十二
- 113その百十三
- 114その百十四
- 115その百十五
- 116その百十六
- 117その百十七
- 118その百十八
- 119その百十九
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