Japanese Edition
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福翁自伝
Japanese BooksWhale Edition by 福沢諭吉
福沢諭吉が自らの半生、幕末維新、学問と社会変化を語った自伝。
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Book introduction
福翁自伝
『福翁自伝』は、緒方洪庵の適塾、海外渡航、慶應義塾、幕末から明治への社会変化を、福沢諭吉自身の軽妙な語りで伝える自伝です。個人の経験を通じて近代日本の形成を読むことができ、思想史・教育史・幕末維新史の資料としても重要です。
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福翁自伝
福翁自伝 福翁自伝 福澤諭吉
慶應義塾の社中にては、西洋の学者に往々自から伝記を記すの例あるを以て、兼てより福澤先生自伝の著述を希望して、親しく之を勧めたるものありしかども、先生の平生甚だ多忙にして執筆の閑を得ずその儘に経過したりしに、一昨年の秋、或る外国人の需に応じて維新前後の実歴談を述べたる折、風と思い立ち、幼時より老後に至る経歴の概略を速記者に口授して筆記せしめ、自から校正を加え、福翁自伝と題して、昨年七月より本年二月までの時事新報に掲載したり。本来この筆記は単に記憶に存したる事実を思い出ずるまゝに語りしものなれば、恰も一場の談話にして、固より事の詳細を悉くしたるに非ず。左れば先生の考にては、新聞紙上に掲載を終りたる後、更らに自から筆を執てその遺漏を補い、又後人の参考の為めにとて、幕政の当時親しく見聞したる事実に拠り、我国開国の次第より幕末外交の始末を記述して別に一編と為し、自伝の後に付するの計画にして、既にその腹案も成りたりしに、昨年九月中、遽に大患に罹りてその事を果すを得ず。誠に遺憾なれども、今後先生の病いよ/\全癒の上は、兼ての腹案を筆記せしめて世に公にし、以て今日の遺憾を償うことあるべし。
明治三十二年六月 時事新報社 石河幹明 記
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福澤諭吉の父は豊前中津奥平藩の士族福澤百助、母は同藩士族、橋本浜右衛門の長女、名を於順と申し、父の身分はヤット藩主に定式の謁見が出来ると云うのですから足軽よりは数等宜しいけれども士族中の下級、今日で云えば先ず判任官の家でしょう。藩で云う元締役を勤めて大阪にある中津藩の倉屋敷に長く勤番して居ました。夫れゆえ家内残らず大阪に引越して居て、私共は皆大阪で生れたのです。兄弟五人、総領の兄の次に女の子が三人、私は末子。私の生れたのは天保五年十二月十二日、父四十三歳、母三十一歳の時の誕生です。ソレカラ天保七年六月、父が不幸にして病死。跡に遺るは母一人に子供五人、兄は十一歳、私は数え年で三つ。斯くなれば大阪にも居られず、兄弟残らず母に連れられて藩地の中津に帰りました。 兄弟五人中津の風に合わず扨中津に帰てから私の覚えて居ることを申せば、私共の兄弟五人はドウシテも中津人と一所に混和することが出来ない、その出来ないと云うのは深い由縁も何もないが、従兄弟が沢山ある、父方の従兄弟もあれば母方の従兄弟もある。マア何十人と云う従兄弟がある。又近所の小供も幾許もある、あるけれどもその者等とゴチャクチャになることは出来ぬ。第一言葉が可笑しい。私の兄弟は皆大阪言葉で、中津の人が「そうじゃちこ」と云う所を、私共は「そうでおます」なんと云うような訳けで、お互に可笑しいから先ず話が少ない。夫れから又母は素と中津生れであるが、長く大阪に居たから大阪の風に慣れて、小供の髪の塩梅式、着物の塩梅式、一切大阪風の着物より外にない。有合の着物を着せるから自然中津の風とは違わなければならぬ。着物が違い言葉が違うと云う外には何も原因はないが、子供の事だから何だか人中に出るのを気恥かしいように思て、自然、内に引込んで兄弟同士遊んで居ると云うような風でした。 儒教主義の教育夫れから最う一つ之に加えると、私の父は学者であった。普通の漢学者であって、大阪の藩邸に在勤してその仕事は何かというと、大阪の金持、加島屋、鴻ノ池というような者に交際して藩債の事を司どる役であるが、元来父はコンナ事が不平で堪らない。金銭なんぞ取扱うよりも読書一偏の学者になって居たいという考であるに、存じ掛もなく算盤を執て金の数を数えなければならぬとか、藩借延期の談判をしなければならぬとか云う仕事で、今の洋学者とは大に違って、昔の学者は銭を見るも汚れると云うて居た純粋の学者が、純粋の俗事に当ると云う訳けであるから、不平も無理はない。ダカラ子供を育てるのも全く儒教主義で育てたものであろうと思うその一例を申せば、斯う云うことがある。私は勿論幼少だから手習どころの話でないが、最う十歳ばかりになる兄と七、八歳になる姉などが手習をするには、倉屋敷の中に手習の師匠があって、其家には町家の小供も来る。其処でイロハニホヘトを教えるのは宜しいが、大阪の事だから九々の声を教える。二二が四、二三が六。これは当然の話であるが、その事を父が聞て、怪しからぬ事を教える。幼少の小供に勘定の事を知らせると云うのは以ての外だ。斯う云う処に小供は遣て置かれぬ。何を教えるか知れぬ。早速取返せと云て取返した事があると云うことは、後に母に聞きました。何でも大変喧ましい人物であったことは推察が出来る。その書遺したものなどを見れば真実正銘の漢儒で、殊に堀河の伊藤東涯先生が大信心で、誠意誠心、屋漏に愧じずということ許り心掛たものと思われるから、その遺風は自から私の家には存して居なければならぬ。一母五子、他人を交えず世間の附合は少く、明ても暮れても唯母の話を聞く許り、父は死んでも生きてるような者です。ソコデ中津に居て、言葉が違い着物が違うと同時に、私共の兄弟は自然に一団体を成して、言わず語らずの間に高尚に構え、中津人は俗物であると思て、骨肉の従兄弟に対してさえ、心の中には何となく之を目下に見下して居て、夫等の者のすることは一切咎もせぬ、多勢に無勢、咎立をしようと云ても及ぶ話でないと諦らめて居ながら、心の底には丸で歯牙に掛けずに、云わば人を馬鹿にして居たようなものです。今でも覚えて居るが、私が少年の時から家に居て、能く饒舌りもし、飛び廻わり刎ね廻わりして、至極活溌にてありながら、木に登ることが不得手で、水を泳ぐことが皆無出来ぬと云うのも、兎角同藩中の子弟と打解けて遊ぶことが出来ずに孤立した所為でしょう。 厳ならずして家風正し今申す通り私共の兄弟は、幼少のとき中津の人と言語風俗を殊にして、他人の知らぬ処に随分淋しい思いをしましたが、その淋しい間にも家風は至極正しい。厳重な父があるでもないが、母子睦じく暮して兄弟喧嘩など唯の一度もしたことがない。のみか、仮初にも俗な卑陋な事はしられないものだと育てられて、別段に教える者もない、母も決して喧しい六かしい人でないのに、自然に爾うなったのは、矢張り父の遺風と母の感化力でしょう。その事実に現われたことを申せば、鳴物などの一条で、三味線とか何とか云うものを、聞こうとも思わなければ何とも思わぬ。斯様なものは全体私なんぞの聞くべきものでない、矧や玩ぶべき者でないと云う考を持て居るから、遂ぞ芝居見物など念頭に浮んだこともない。例えば、夏になると中津に芝居がある。祭の時には七日も芝居を興行して、田舎役者が芸をするその時には、藩から布令が出る。芝居は何日の間あるが、藩士たるものは決して立寄ることは相成らぬ、住吉の社の石垣より以外に行くことならぬと云うその布令の文面は、甚だ厳重なようにあるが、唯一片の御布令だけの事であるから、俗士族は脇差を一本挟して頬冠りをして颯々と芝居の矢来を破て這入る。若しそれを咎めれば却て叱り飛ばすと云うから、誰も怖がって咎める者はない。町の者は金を払て行くに、士族は忍姿で却て威張て只這入て観る。然るに中以下俗士族の多い中で、その芝居に行かぬのは凡そ私のところ一軒位でしょう。決して行かない。此処から先きは行くことはならぬと云えば、一足でも行かぬ、どんな事があっても。私の母は女ながらも遂ぞ一口でも芝居の事を子供に云わず、兄も亦行こうと云わず、家内中一寸でも話がない。夏、暑い時の事であるから凉には行く。併しその近くで芝居をして居るからと云て見ようともしない、どんな芝居を遣て居るとも噂にもしない、平気で居ると云うような家風でした。 成長の上、坊主にする前申す通り、亡父は俗吏を勤めるのが不本意であったに違いない。左れば中津を蹴飛して外に出れば宜い。所が決してソンナ気はなかった様子だ。如何なる事にも不平を呑んで、チャント小禄に安んじて居たのは、時勢の為めに進退不自由なりし故でしょう。私は今でも独り気の毒で残念に思います。例えば父の生前に斯う云う事がある。今から推察すれば父の胸算に、福澤の家は総領に相続させる積りで宜しい、所が子供の五人目に私が生れた、その生れた時は大きな療せた骨太な子で、産婆の申すに、この子は乳さえ沢山呑ませれば必ず見事に育つと云うのを聞て、父が大層喜んで、是れは好い子だ、この子が段々成長して十か十一になれば寺に遣て坊主にすると、毎度母に語ったそうです。その事を母が又私に話して、アノ時阿父さんは何故坊主にすると仰っしゃったか合点が行かぬが、今御存命なればお前は寺の坊様になってる筈じゃと、何かの話の端には母が爾う申して居ましたが、私が成年の後その父の言葉を推察するに、中津は封建制度でチャント物を箱の中に詰めたように秩序が立て居て、何百年経ても一寸とも動かぬと云う有様、家老の家に生れた者は家老になり、足軽の家に生れた者は足軽になり、先祖代々、家老は家老、足軽は足軽、その間に挟まって居る者も同様、何年経ても一寸とも変化と云うものがない。ソコデ私の父の身になって考えて見れば、到底どんな事をしたって名を成すことは出来ない、世間を見れば茲に坊主と云うものが一つある、何でもない魚屋の息子が大僧正になったと云うような者が幾人もある話、それゆえに父が私を坊主にすると云たのは、その意味であろうと推察したことは間違いなかろう。 門閥制度は親の敵如斯なことを思えば、父の生涯、四十五年のその間、封建制度に束縛せられて何事も出来ず、空しく不平を呑んで世を去りたるこそ遺憾なれ。又初生児の行末を謀り、之を坊主にしても名を成さしめんとまでに決心したるその心中の苦しさ、その愛情の深さ、私は毎度この事を思出し、封建の門閥制度を憤ると共に、亡父の心事を察して独り泣くことがあります。私の為めに門閥制度は親の敵で御座る。 年十四、五歳にして始めて読書に志す私は坊主にならなかった。坊主にならずに家に居たのであるから学問をすべき筈である。所が誰も世話の為人がない。私の兄だからと云て兄弟の長少僅か十一しか違わぬので、その間は皆女の子、母も亦たった一人で、下女下男を置くと云うことの出来る家ではなし、母が一人で飯を焚いたりお菜を拵えたりして五人の小供の世話をしなければならぬから、中々教育の世話などは存じ掛もない。云わばヤリ放しである。藩の風で幼少の時から論語を続むとか大学を読む位の事は遣らぬことはないけれども、奨励する者とては一人もない。殊に誰だって本を読むことの好な子供はない。私一人本が嫌いと云うこともなかろう、天下の小供みな嫌いだろう。私は甚だ嫌いであったから休でばかり居て何もしない。手習もしなければ本も読まない。根っから何にもせずに居た所が、十四か十五になって見ると、近処に知て居る者は皆な本を読で居るのに、自分独り読まぬと云うのは外聞が悪いとか恥かしいとか思たのでしょう。夫れから自分で本当に読む気になって、田舎の塾へ行始めました。どうも十四、五になって始めて学ぶのだから甚だきまりが悪い。外の者は詩経を読むの書経を読むのと云うのに、私は孟子の素読をすると云う次第である。所が茲に奇な事は、その塾で蒙求とか孟子とか論語とかの会読講義をすると云うことになると、私は天禀、少し文才があったのか知らん、能く其の意味を解して、朝の素読に教えて呉れた人と、昼からになって蒙求などの会読をすれば、必ず私がその先生に勝つ。先生は文字を読む許りでその意味は受取の悪い書生だから、之を相手に会読の勝敗なら訳けはない。 左伝通読十一偏その中、塾も二度か三度か更えた事があるが、最も多く漢書を習たのは、白石と云う先生である。其処に四、五年ばかり通学して漢書を学び、その意味を解すことは何の苦労もなく存外早く上達しました。白石の塾に居て漢書は如何なるものを読だかと申すと、経書を専らにして論語、孟子は勿論、すべて経義の研究を勉め、殊に先生が好きと見えて詩経に書経と云うものは本当に講義をして貰て善く読みました。ソレカラ蒙求、世説、左伝、戦国策、老子、荘子と云うようなものも能く講義を聞き、その先きは私独りの勉強、歴史は史記を始め前後漢書、晋書、五代史、元明史略と云うようなものも読み、殊に私は左伝が得意で、大概の書生は左伝十五巻の内三、四巻で仕舞うのを、私は全部通読、凡そ十一度び読返して、面白い処は暗記して居た。夫れで一ト通り漢学者の前座ぐらいになって居たが、一体の学流は亀井風で、私の先生は亀井が大信心で、余り詩を作ることなどは教えずに寧ろ冷笑して居た。広瀬淡窓などの事は、彼奴は発句師、俳諧師で、詩の題さえ出来ない、書くことになると漢文が書けぬ、何でもない奴だと云て居られました。先生が爾う云えば門弟子も亦爾う云う気になるのが不思議だ。淡窓ばかりでない、頼山陽なども甚だ信じない、誠に目下に見下して居て、「何だ粗末な文章、山陽などの書いたものが文章と云われるなら誰でも文章の出来ぬ者はあるまい。仮令い舌足らずで吃た所が意味は通ずると云うようなものだなんて大造な剣幕で、先生から爾う教込まれたから、私共も山陽外史の事をば軽く見て居ました。白石先生ばかりでない。私の父が又その通りで、父が大阪に居るとき山陽先生は京都に居り、是非交際しなければならぬ筈であるに一寸とも付合わぬ。野田笛浦と云う人が父の親友で、野田先生はどんな人か知らない、けれども山陽を疎外して笛浦を親しむと云えば、笛浦先生は浮気でない学者と云うような意味でしたか、筑前の亀井先生なども朱子学を取らずに経義に一説を立てたと云うから、その流を汲む人々は何だか山陽流を面白く思わぬのでしょう。 手端器用なり以上は学問の話しですが、尚お此の外に申せば、私は旧藩士族の小供に較べて見ると手の先きの器用な奴で、物の工夫をするような事が得意でした。例えば井戸に物が墜ちたと云えば、如何云う塩梅にして之を揚げるとか、箪笥の錠が明かぬと云えば、釘の尖などを色々に抂げて遂に見事に之を明けるとか云う工風をして面白がって居る。又た障子を張ることも器用で、自家の障子は勿論、親類へ雇われて張りに行くこともある。兎に角に何をするにも手先が器用でマメだから、自分にも面白かったのでしょう。ソレカラ段々年を取るに従て仕事も多くなって、固より貧士族のことであるから、自分で色々工風して、下駄の鼻緒もたてれば雪駄の剥れたのも縫うと云うことは私の引受けで、自分のばかりでない、母のものも兄弟のものも繕うて遣る。或は畳針を買て来て畳の表を附け替え、又或は竹を割って桶の箍を入れるような事から、その外、戸の破れ屋根の漏りを繕うまで当前の仕事で、皆私が一人でして居ました。ソレカラ進んで本当の内職を始めて、下駄を拵えたこともあれば、刀剣の細工をしたこともある。刀の身を磨ぐことは知らぬが、鞘を塗り柄を巻き、その外、金物の細工は田舎ながらドウヤラコウヤラ形だけは出来る。今でも私の塗た虫喰塗りの脇差の鞘が宅に一本あるが、随分不器用なものです。都てコンナ事は近処に内職をする士族があってその人に習いました。 鋸鑢に驚く金物細工をするに鑢は第一の道具で、是れも手製に作って、その製作には随分苦心して居た所が、その後、年経て私が江戸に来て先ず大に驚いたことがある、と申すは只の鑢は鋼鉄を斯うして斯う遣れば私の手にもヲシ/\出来るが、鋸鑢ばかりは六かしい。ソコデ江戸に這入たとき、今思えば芝の田町、処も覚えて居る、江戸に這入て往来の右側の家で、小僧が鋸の鑢の目を叩て居る。皮を鑢の下に敷いて鏨で刻んで颯々と出来る様子だから、私は立留て之を見て、心の中で扨々大都会なる哉、途方もない事が出来るもの哉、自分等は夢にも思わぬ、鋸の鑢を拵えようと云うことは全く考えたこともない、然るに小供がアノ通り遣て居るとは、途方もない工芸の進んだ場所だと思て、江戸に這入たその日に感心したことがあると云うような訳けで、少年の時から読書の外は俗な事ばかりして俗な事ばかり考えて居て、年を取ても兎角手先きの細工事が面白くて、動もすれば鉋だの鑿だの買集めて、何か作って見よう、繕うて見ようと思うその物は皆な俗な物ばかり、所謂美術と云う思想は少しもない。平生万事至極殺風景で、衣服住居などに一切頓着せず、如何いう家に居てもドンナ着物を着ても何とも思わぬ。着物の上着か下着かソレモ構わぬ。況して流行の縞模様など考えて見たこともない程の不風流なれども、何か私に得意があるかと云えば、刀剣の拵えとなれば、是れは善く出来たとか、小道具の作柄釣合が如何とか云う考はある。是れは田舎ながら手に少し覚えのある芸から自然に養うた意匠でしょう。 青天白日に徳利夫れから私が世間に無頓着と云うことは少年から持て生れた性質、周囲の事情に一寸とも感じない。藩の小士族などは酒、油、醤油などを買うときは、自分自から町に使に行かなければならぬ。所がその頃の士族一般の風として、頬冠をして宵出掛て行く。私は頬冠は大嫌いだ。生れてからしたことはない。物を買うに何だ、銭を遣て買うに少しも構うことはないと云う気で、顔も頭も丸出しで、士族だから大小は挟すが、徳利を提て、夜は扨置き白昼公然、町の店に行く。銭は家の銭だ、盗んだ銭じゃないぞと云うような気位で、却て藩中者の頬冠をして見栄をするのを可笑しく思たのは少年の血気、自分独り自惚て居たのでしょう。ソレカラ又家に客を招く時に、大根や牛蒡を煮て喫せると云うことに就て、必要があるから母の指図に従て働て居た。所で私は客などがウヂャ/\酒を呑むのは大嫌い。俗な奴等だ、呑むなら早く呑で帰て仕舞えば宜いと思うのに、中々帰らぬ。家は狭くて居処もない。仕方ないから客の呑でる間は、私は押入の中に這入て寝て居る。何時でも客をする時には、客の来る迄は働く、けれども夕方になると、自分も酒が好だから颯々と酒を呑で飯を喰て押入に這入て仕舞い、客が帰た跡で押入から出て、何時も寝る処に寝直すのが常例でした。 夫れから私の兄は年を取て居て色々の朋友がある。時勢論などをして居たのを聞たこともある、けれども私は夫れに就て喙を容れるような地位でない。只追使れる許り。その時、中津の人気は如何かと云えば、学者は挙て水戸の御隠居様、即ち烈公の事と、越前の春嶽様の話が多い。学者は水戸の老公と云い、俗では水戸の御隠居様と云う。御三家の事だから譜代大名の家来は大変に崇めて、仮初にも隠居などゝ呼棄にする者は一人もない。水戸の御隠居様、水戸の老公と尊称して、天下一の人物のように話して居たから、私も左様思て居ました。ソレカラ江川太郎左衛門も幕府の旗本だから、江川様と蔭でも屹と様付にして、之も中々評判が高い。或時兄などの話に、江川太郎左衛門と云う人は近世の英雄で、寒中袷一枚着て居ると云うような話をして居るのを、私が側から一寸と聞て、何にその位の事は誰でも出来ると云うような気になって、ソレカラ私は誰にも相談せずに、毎晩掻巻一枚着て敷蒲団も敷かず畳の上に寝ることを始めた。スルト母は之を見て、何の真似か、ソンナ事をすると風邪を引くと云て、頻りに止めるけれども、トウ/\聴かずに一冬通したことがあるが、是れも十五、六歳の頃、唯人に負けぬ気で遣たので身体も丈夫であったと思われる。 兄弟問答又当時世間一般の事であるが、学問と云えば漢学ばかり、私の兄も勿論漢学一方の人で、只他の学者と違うのは、豊後の帆足万里先生の流を汲んで、数学を学んで居ました。帆足先生と云えば中々大儒でありながら数学を悦び、先生の説に、鉄砲と算盤は士流の重んずべきものである、その算盤を小役人に任せ、鉄砲を足軽に任せて置くと云うのは大間違いと云うその説が中津に流行して、士族中の有志者は数学に心を寄せる人が多い。兄も矢張り先輩に傚うて算盤の高尚な所まで進んだ様子です。この辺は世間の儒者と少し違うようだが、その他は所謂孝悌忠信で、純粋の漢学者に相違ない。或時兄が私に問を掛けて、「お前は是れから先き何になる積りかと云うから、私が答えて、「左様さ、先ず日本一の大金持になって思うさま金を使うて見ようと思いますと云うと、兄が苦い顔して叱ったから、私が返問して、「兄さんは如何なさると尋ねると、真面目に、「死に至るまで孝悌忠信と唯一言で、私は「ヘーイと云た切りそのまゝになった事があるが、先ず兄はソンナ人物で、又妙な処もある。或時私に向て、「乃公は総領で家督をして居るが、如何かして六かしい家の養子になって見たい。何とも云われない頑固な、ゴク喧しい養父母に事えて見たい。決して風波を起させないと云うのは、畢竟養父母と養子との間柄の悪いのは養子の方の不行届だと説を極めてたのでしょう。所が私は正反対で、「養子は忌な事だ、大嫌いだ。親でもない人を誰が親にして事える者があるかと云うような調子で、折々は互に説が違て居ました。是れは私の十六、七の頃と思います。 母も亦随分妙な事を悦んで、世間並には少し変わって居たようです。一体下等社会の者に附合うことが数寄で、出入りの百姓町人は無論、穢多でも乞食でも颯々と近づけて、軽蔑もしなければ忌がりもせず言葉など至極丁寧でした。又宗教に就て、近処の老婦人達のように普通の信心はないように見える。例えば家は真宗でありながら説法も聞かず、「私は寺に参詣して阿弥陀様を拝むこと許りは可笑しくてキマリが悪くて出来ぬと常に私共に云いながら、毎月米を袋に入れて寺に持て行て墓参りは欠かしたことはない(その袋は今でも大事に保存してある)。阿弥陀様は拝まぬが坊主には懇意が多い。旦那寺の和尚は勿論、又私が漢学塾に修業して、その塾中に諸国諸宗の書生坊主が居て、毎度私処に遊びに来れば、母は悦んで之を取持て馳走でもすると云うような風で、コンナ所を見れば唯仏法が嫌いでもないようです。兎に角に慈善心はあったに違いない。 乞食の虱をとる茲に誠に穢い奇談があるから話しましょう。中津に一人の女乞食があって、馬鹿のような狂者のような至極の難渋者で、自分の名か、人の付けたのか、チエ/\と云て、毎日市中を貰て廻わる。所が此奴が穢いとも臭いとも云いようのない女で、着物はボロ/\、髪はボウ/\、その髪に虱がウヤ/\して居るのが見える。母が毎度の事で天気の好い日などには、おチエ此方に這入て来いと云て、表の庭に呼込んで土間の草の上に坐らせて、自分は襷掛けに身構えをして乞食の虱狩を始めて、私は加勢に呼出される。拾うように取れる虱を取ては庭石の上に置き、マサカ爪で潰すことは出来ぬから、私を側に置いて、この石の上のを石で潰せと申して、私は小さい手ごろな石を以て構えて居る。母が一疋取て台石の上に置くと私はコツリと打潰すと云う役目で、五十も百も先ずその時に取れる丈け取て仕舞い、ソレカラ母も私も着物を払うて糠で手を洗うて、乞食には虱を取らせて呉れた褒美に飯を遣ると云う極りで、是れは母の楽みでしたろうが、私は穢なくて穢なくて堪らぬ。今思出しても胸が悪いようです。 反故を踏みお札を踏む又私の十二、三歳の頃と思う。兄が何か反古を揃えて居る処を、私がドタバタ踏んで通った所が兄が大喝一声、コリャ待てと酷く叱り付けて、「お前は眼が見えぬか、之を見なさい、何と書いてある、奥平大膳大夫と御名があるではないかと大造な権幕だから、「アヽ左様で御在ましたか、私は知らなんだと云うと、「知らんと云ても眼があれば見える筈じゃ、御名を足で踏むとは如何云う心得である、臣子の道はと、何か六かしい事を並べて厳しく叱るから謝らずには居られぬ。「私が誠に悪う御在ましたから堪忍して下さいと御辞儀をして謝ったけれども、心の中では謝りも何もせぬ。「何の事だろう、殿様の頭でも踏みはしなかろう、名の書いてある紙を踏んだからッて構うことはなさそうなものだと甚だ不平で、ソレカラ子供心に独り思案して、兄さんの云うように殿様の名の書いてある反古を踏んで悪いと云えば、神様の名のある御札を踏んだら如何だろうと思て、人の見ぬ処で御札を踏んで見た所が何ともない。「ウム何ともない、コリャ面白い、今度は之を洗手場に持て行て遣ろうと、一歩を進めて便所に試みて、その時は如何かあろうかと少し怖かったが、後で何ともない。「ソリャ見たことか、兄さんが余計な、あんな事を云わんでも宜いのじゃと独り発明したようなものだが、是れ許りは母にも云われず姉にも云われず、云えば屹と叱られるから、一人で窃と黙って居ました。 稲荷様の神体を見るソレカラ一つも二つも年を取れば自から度胸も好くなったと見えて、年寄などの話にする神罰冥罰なんと云うことは大嘘だと独り自から信じ切て、今度は一つ稲荷様を見て遣ろうと云う野心を起して、私の養子になって居た叔父様の家の稲荷の社の中には何が這入て居るか知らぬと明けて見たら、石が這入て居るから、その石を打擲って仕舞て代りの石を拾うて入れて置き、又隣家の下村と云う屋敷の稲荷様を明けて見れば、神体は何か木の札で、之も取て棄てゝ仕舞い平気な顔して居ると、間もなく初午になって、幟を立てたり大鼓を叩いたり御神酒を上げてワイ/\して居るから、私は可笑しい。「馬鹿め、乃公の入れて置いた石に御神酒を上げて拝んでるとは面白いと、独り嬉しがって居たと云うような訳けで、幼少の時から神様が怖いだの仏様が有難いだの云うことは一寸ともない。卜筮呪詛一切不信仰で、狐狸が付くと云うようなことは初めから馬鹿にして少しも信じない。小供ながらも精神は誠にカラリとしたものでした。或時に大阪から妙な女が来たことがあるその女と云うのは、私共が大阪に居る時に邸に出入をする上荷頭の伝法寺屋松右衛門と云うものゝ娘で、年の頃三十位でもあったかと思う。その女が中津に来て、お稲荷様を使うことを知て居ると吹聴するその次第は、誰にでも御幣を持たして置て何か祈ると、その人に稲荷様が憑拠くとか何とか云て、頻りに私の家に来て法螺を吹て居る。夫れからその時に私は十五、六の時だと思う。「ソリャ面白い、遣て貰おう、乃公がその御幣を持とう、持て居る御幣が動き出すと云うのは面白い、サア持たして呉れろと云うと、その女がつく/″\と私を見て居て、「坊さんはイケマヘンと云うから、私は承知しない。「今誰にでもと云たじゃないか、サア遣て見せろと、酷くその女を弱らして面白かった事がある。 門閥の不平ソレカラ私が幼少の時から中津に居て、始終不平で堪らぬと云うのは無理でない。一体中津の藩風と云うものは、士族の間に門閥制度がチャンと定まって居て、その門閥の堅い事は啻に藩の公用に就てのみならず、今日私の交際上、小供の交際に至るまで、貴賤上下の区別を成して、上士族の子弟が私の家のような下士族の者に向ては丸で言葉が違う。私などが上士族に対して、アナタが如何なすって、斯うなすってと云えば、先方では貴様が爾う為やって、斯う為やれと云うような風で、万事その通りで、何でもない只小供の戯れの遊びにも門閥が付て廻るから、如何しても不平がなくては居られない。その癖今の貴様とか何とか云う上士族の子弟と学校に行て、読書会読と云うような事になれば、何時でも此方が勝つ。学問ばかりでない、腕力でも負けはしない。夫れがその交際、朋友互に交って遊ぶ小供遊の間にも、ちゃんと門閥と云うものを持て横風至極だから、小供心に腹が立て堪らぬ。 下執事の文字に叱かられる況して大人同士、藩の御用を勤めて居る人々に貴賤の区別は中々喧ましいことで、私が覚えて居るが、或時私の兄が家老の処に手紙を遣て、少し学者風でその表書に何々様下執事と書いて遣たら大に叱られ、下執事とは何の事だ、御取次衆と認めて来いと云て、手紙を突返して来た。私は之を見ても側から独り立腹して泣たことがある。馬鹿々々しい、こんな処に誰が居るものか、如何したって是れはモウ出るより外に仕様がないと、始終心の中に思て居ました。ソレカラ私も次第に成長して、少年ながらも少しは世の中の事が分るようになる中に、私の従兄弟などにも随分一人や二人は学者がある。能く書を読む男がある。固より下士族の仲間だから、兄なぞと話のときには藩風が善くないとか何とかいろ/\不平を洩らして居るのを聞いて、私は始終ソレを止めて居ました。「よしなさい、馬鹿々々しい。この中津に居る限りは、そんな愚論をしても役に立つものでない。不平があれば出て仕舞が宜い、出なければ不平を云わぬが宜と、毎度止て居たことがあるが、是れはマア私の生付きの性質とでも云うようなものでしょう。 喜怒色に顕わさず或時私が何か漢書を読む中に、喜怨色に顕さずと云う一句を読で、その時にハット思うて大に自分で安心決定したことがある。「是れはドウモ金言だと思い、始終忘れぬようにして独りこの教を守り、ソコデ誰が何と云て賞めて呉れても、唯表面に程よく受けて心の中には決して喜ばぬ。又何と軽蔑されても決して怒らない。どんな事があっても怒った事はない。矧や朋輩同士で喧嘩をしたと云うことは只の一度もない。ツイゾ人と掴合ったの、打ったの、打たれたのと云うことは一寸ともない。是れは少年の時ばかりでない。少年の時分から老年の今日に至るまで、私の手は怒に乗じて人の身体に触れたことはない。所が先年二十何年前、塾の書生に何とも仕方のない放蕩者があって、私が多年衣食を授けて世話をして遣るにも拘わらず、再三再四の不埓、或るときそのものが何処に何をしたか夜中酒に酔て生意気な風をして帰て来たゆえ、貴様は今夜寝ることはならぬ、起きてチャント正座して居ろと申渡して置て、少して行て見ればグウ/″\鼾をして居る。この不埓者めと云て、その肩の処をつらまえて引起して、目の醒めてるのを尚おグン/″\ゆたぶって遣たことがある。その時跡で独り考えて、「コリャ悪い事をした、乃公は生涯、人に向て此方から腕力を仕掛けたようなことはなかったに、今夜は気に済まぬ事をしたと思て、何だか坊主が戒律でも破たような心地がして、今に忘れることが出来ません。その癖私は少年の時から能く饒舌り、人並よりか口数の多い程に饒舌って、爾うして何でも為ることは甲斐々々しく遣て、決して人に負けないけれども、書生流儀の議論と云うことをしない。似合い議論すればと云ても、ほんとうに顔を赧めて如何あっても勝たなければならぬと云う議論をしたことはない。何か議論を始めて、ひどく相手の者が躍起となって来れば、此方はスラリと流して仕舞う。「彼の馬鹿が何を馬鹿を云て居るのだと斯う思て、頓と深く立入ると云うことは決して遣らなかった。ソレでモウ自分の一身は何処に行て如何な辛苦も厭わぬ、唯この中津に居ないで如何かして出て行きたいものだと、独り夫ればかり祈って居た処が、とうと長崎に行くことが出来ました。
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それから長崎に出掛けた。頃は安政元年二月、即ち私の年二十一歳(正味十九歳三箇月)の時である。その時分には中津の藩地に横文字を読む者がないのみならず、横文字を見たものもなかった。都会の地には洋学と云うものは百年も前からありながら、中津は田舎の事であるから、原書は扨置き、横文字を見たことがなかった。所がその頃は丁度ペルリの来た時で、亜米利加の軍艦が江戸に来たと云うことは田舎でも皆知て、同時に砲術と云うことが大変喧しくなって来て、ソコデ砲術を学ぶものは皆和蘭流に就て学ぶので、その時私の兄が申すに、「和蘭の砲術を取調べるには如何しても原書を読まなければならぬと云うから、私には分らぬ。「原書とは何の事ですと兄に質問すると、兄の答に、「原書と云うは、和蘭出版の横文字の書だ。今、日本に飜訳書と云うものがあって、西洋の事を書いてあるけれども、真実に事を調べるにはその大本の蘭文の書を読まなければならぬ。夫れに就ては貴様はその原書を読む気はないかと云う。所が私は素と漢書を学んで居るとき、同年輩の朋友の中では何時も出来が好くて、読書講義に苦労がなかったから、自分にも自然頼にする気があったと思われる。「人の読むものなら横文字でも何でも読みましょうと、ソコデ兄弟の相談は出来て、その時丁度兄が長崎に行く序に任せ、兄の供をして参りました。長崎に落付き、始めて横文字の abc と云うものを習うたが、今では日本国中到る処に、徳利の貼紙を見ても横文字は幾許もある。目に慣れて珍しくもないが、始めての時は中々六かしい。廿六文字を習うて覚えて仕舞うまでには三日も掛りました。けれども段々読む中には又左程でもなく、次第々々に易くなって来たが、その蘭学修業の事は扨置き、抑も私の長崎に往たのは、唯田舎の中津の窮屈なのが忌で/\堪らぬから、文学でも武芸でも何でも外に出ることが出来さえすれば難有いと云うので出掛けたことだから、故郷を去るに少しも未練はない、如斯処に誰が居るものか、一度出たらば鉄砲玉で、再び帰て来はしないぞ、今日こそ宜い心地だと独り心で喜び、後向て唾して颯々と足早にかけ出したのは今でも覚えて居る。 活動の始まり夫れから長崎に行て、そうして桶屋町の光永寺と云うお寺を便ったと云うのは、その時に私の藩の家老の倅で奥平壹岐と云う人はそのお寺と親類で、其処に寓居して居るのを幸いに、その人を使ってマアお寺の居候になって居るその中に、小出町に山本物次郎と云う長崎両組の地役人で砲術家があって、其処に奥平が砲術を学んで居るその縁を以て、奥平の世話で山本の家に食客に入込みました。抑も是れが私の生来活動の始まり。有らん限りの仕事を働き、何でもしない事はない。その先生が眼が悪くて書を読むことが出来ないから、私が色々な時勢論など、漢文で書いてある諸大家の書を読んで先生に聞かせる。又その家に十八、九の倅が在て独息子、余りエライ少年でない、けれども本は読まなければならぬと云うので、ソコでその倅に漢書を教えて遣らなければならぬ。是れが仕事の一つ。それから家は貧乏だけれども活計は大きい。借金もある様子で、その借金の云延し、新に借用の申込みに行き、又金談の手紙の代筆もする。其処の家に下婢が一人に下男が一人ある。〔所で〕動もするとその男が病気とか何とか云う時には、男の代をして水も汲む。朝夕の掃除は勿論、先生が湯に這入る時は背中を流したり湯を取たりして遣らなければならぬ。又その内儀さんが猫が大好き、狆が大好き、生物が好きで、猫も狆も犬も居るその生物一切の世話をしなければならぬ。上中下一切の仕事、私一人で引受けて遣て居たから、酷く調法な男だ、何とも云われない調法な血気の少年であり乍ら、その少年の行状が甚だ宜しい、甚だ宜しくて甲斐々々しく働くと云うので、ソコデ以て段々その山本の家の気に入て、仕舞には先生が養子にならないかと云う。私は前にも云う通り中津の士族で、遂ぞ自分は知りはせぬが少さい時から叔父の家の養子になって居るから、その事を云うと、先生が夫れなら尚更ら乃公の家の養子になれ、如何でも乃公が世話をして遣るからと度々云われた事がある。 その時の一体の砲術家の有様を申せば、写本の蔵書が秘伝で、その本を貸すには相当の謝物を取て貸す。写したいと云えば、写す為めの謝料を取ると云うのが、先ず山本の家の臨時収入で、その一切の砲術書を貸すにも写すにも、先生は眼が悪いから皆私の手を経る。それで私は砲術家の一切の元締になって、何もかも私が一切取扱て居る。その時分の諸藩の西洋家、例えば宇和島藩、五島藩、佐賀藩、水戸藩などの人々が来て、或は出島の和蘭屋敷に行て見たいとか、或は大砲を鋳るから図を見せて呉れとか、そんな世話をするのが山本家の仕事で、その実は皆私が遣る。私は本来素人で、鉄砲を打つのを見た事もないが、図を引くのは訳けはない。颯々と図を引いたり、説明を書いたり、諸藩の人が来れば何に付けても独り罷り出て、丸で十年も砲術を学んで立派に砲術家と見られる位に挨拶をしたり世話をしたりすると云う調子である。処で私を山本の居候に世話をして入れて呉れた人、即ち奥平壹岐だ。壹岐と私とは主客処を易えて、私が主人見たようになったから可笑しい。壹岐は元来漢学者の才子で局量が狭い。小藩でも大家の子だから如何も我儘だ。もう一つは私の目的は原書を読むに在て、蘭学医の家に通うたり和蘭通詞の家に行ったりして一意専心原書を学ぶ。原書と云うものは始めて見たのであるが、五十日、百日とおい/\日を経るに従て、次第に意味が分るようになる。所が奥平壹岐はお坊さん、貴公子だから、緻密な原書などの読める訳けはない。その中に此方は余程エラクなったのが主公と不和の始まり。全体奥平と云う人は決して深い巧みのある悪人ではない。唯大家の我儘なお坊さんで智恵がない度量がない。その時に旨く私を籠絡して生捕って仕舞えば譜代の家来同様に使えるのに、却てヤッカミ出したとは馬鹿らしい。歳は私より十ばかり上だが、何分気分が子供らしくて、ソコデ私を中津に還えすような計略を運らしたのが、私の身には一大災難。 長崎に居ること難しソリャ斯う云う次第になって来た。その奥平壹岐と云う人に与兵衛と云う実父の隠居があって、私共は之を御隠居様と崇めて居た。ソコデ私の父は二十年前に死んで居るのですけれども、私の兄が成長の後に父のするような事をして、又大阪に行て勤番をして居て、中津には母一人で何もない。姉は皆嫁いて居て、身寄りの若い者の中には私の従兄の藤本元岱と云う医者が唯一人、能く事が分り書も能く読める学者であるが、そこで中津に在る彼の御隠居様が無法な事をしたと云うは、何れ長崎の倅壹岐の方から打合のあったものと見えて、その隠居が従兄の藤本を呼に来て、隠居の申すに、諭吉を呼還せ、アレが居ては倅壹岐の妨げになるから早々呼還せ、但しソレに就ては母が病気だと申遣わせと云う御直の厳命が下ったから、固より否むことは出来ず、唯畏りましたと答えて、母にもそのよしを話して、ソレカラ従兄が私に手紙を寄送して、母の病気に付き早々帰省致せと云う表向の手紙と、又別紙に、実は隠居から斯う/\云う次第、余儀なく手紙を出したが、決して母の身を案じるなと詳に事実を書いて呉れたから、私は之を見て実に腹が立った。何だ、鄙劣千万な、計略を運らして母の病気とまで偽を云わせる、ソンナ奴があるものか、モウ焼けだ、大議論をして遣ろうかと思たが、イヤ/\左様でない、今アノ家老と喧嘩をした所が、負けるに極って居る、戦わずして勝負は見えてる、一切喧嘩はしない、アンナ奴と喧嘩をするよりも自分の身の始末が大事だと思直して、夫れからシラバクレて胆を潰した風をして奥平の処に行て、扨中津から箇様申して参りました、母が俄に病気になりました、平生至極丈夫な方でしたが、実に分らぬものです、今頃は如何云う容体でしょうか、遠国に居て気になりますなんて、心配そうな顔してグチャ/\述立てると、奥平も大に驚いた顔色を作り、左様か、ソリャ気の毒な事じゃ、嘸心配であろう、兎に角に早く帰国するが宜かろう、併し母の病気全快の上は又再遊の出来るようにして遣るからと、慰さめるように云うのは、狂言が旨く行われたと心中得意になって居るに違いない。ソレカラ又私は言葉を続けて、唯今御指図の通り早々帰国しますが、御隠居様に御伝言は御在ませんか、何れ帰れば御目に掛ります、又何か御品があれば何でも持て帰りますと云て、一ト先ず別れて翌朝又行て見ると、主公が家に遣る手紙を出して、之を屋敷に届けて呉れ、親仁に斯う/\伝言をして呉れと云い、又別に私の母の従弟の大橋六助と云う男に遣る手紙を渡して、これを六助の処に持て行け、爾うすると貴様の再遊に都合が宜かろうと云て、故意とその手紙に封をせずに明けて見よがしにしてあるから、何もかも委細承知して丁寧に告別して、宿に帰て封なしの手紙を開て見れば、「諭吉は母の病気に付き是非帰国と云うからその意に任せて還すが、修業勉強中の事ゆえ再遊の出来るようその方にて取計らえと云う文句。私は之を見てます/\癪に障る。「この猿松め馬鹿野郎めと独り心の中で罵り、ソレカラ山本の家にも事実は云われぬ、若し是れが顕われて奥平の不面目にもなれば、禍は却て私の身に降て来て如何な目に逢うか知れない、ソレガ怖いから唯母の病気とばかり云て暇乞をしました。 江戸行を志す丁度そのとき中津から鉄屋惣兵衛と云う商人が長崎に来て居て、幸いその男が中津に帰ると云うから、兎も角も之と同伴と約束をして置て、ソコデ私の胸算は固より中津に帰る気はない。何でも人間の行くべき処は江戸に限る、是れから真直に江戸に行きましょうと決心はしたが、この事に就ては誰かに話して相談をせねばならぬ。所が江戸から来た岡部同直と云う蘭学書生がある。是れは医者の子で至極面白い慥かな人物と見込んだから、この男に委細の内情を打明けて、「斯う/\云う次第で僕は長崎に居られぬ、余り癪に障るからこのまゝ江戸に飛出す積りだが、実は江戸に知る人はなし、方角が分らぬ。君の家は江戸ではないか、大人は開業医と開いたが、君の家に食客に置て呉れる事は出来まいか。僕は医者でないが丸薬を丸める位の事は屹と出来るから、何卒世話をして貰いたいと云うと、岡部も私の身の有様を気の毒に思うたか、私と一緒になって腹を立てゝ容易く私の云う事を請合い、「ソレは出来よう、何でも江戸に行け。僕の親仁は日本橋檜物町に開業して居るから、手紙を書いて遣ろうと云て、親仁名当の一封を呉れたから私は喜んで之を請取り、「ソコデ今この事が知れると大変だ、中津に帰らなければならぬようになるから、是ればかりは奥平にも山本にも一切誰にも云わずに、君一人で呑込んで居て外に洩らさぬようにして、僕は是れから下ノ関に出て船に乗て先ず大阪に行く、凡そ十日か十五日も掛れば着くだろう。その時を見計ろうて中村(諭吉、当時は中村の姓を冒す)は初めから中津に帰る気はなかった、江戸に行くと云て長崎を出たと、奥平にも話して呉れ。是れも聊か面当だと互に笑て、朋友と内々の打合せは出来た。 諫早にて鉄屋と別るそれから奥平の伝言や何かをすっかり手紙に認めて仕舞い、是れは例の御隠居様に遣らなければならぬ。「私は長崎を出立して中津に帰る所存で諫早まで参りました処が、その途中で不図江戸に行きたくなりましたから、是れから江戸に参ります。就ては壹岐様から斯様々々の御伝言で、お手紙は是れですからお届け申すと丁寧に認めて遣って、ソレカラ封をせずに渡した即ち大橋六助に宛た手紙を本人に届ける為めに、私が手紙を書添えて、「この通りに封をせぬのは可笑しい、こんな馬鹿な事はないがこの儘御届け申します。原はと云えば自分の方で呼還すように企てゝ置きながら、表べに人を欺くと云うのは卑劣至極な奴だ。私はもう中津に帰らず江戸に行くからこの手紙を御覧下さいと云うような塩梅に認めて、万事の用意は出来て、鉄屋惣兵衛と一処に長崎を出立して諫早まで――この間は七里ある――来た。丁度夕方着たが何でも三月の中旬、月の明るい晩であった。「扨鉄屋、乃公は長崎を出る時は中津に帰る所存であったが、是れから中津に帰るは忌になった。貴様の荷物と一処に乃公のこの葛籠も序に持て帰て呉れ。乃公はもう着換が一、二枚あれば沢山だ。是れから下ノ関に出て大阪へ行て、夫れから江戸に行くのだと云うと、惣兵衛殿は呆れて仕舞い、「それは途方もない、お前さんのような年の若い旅慣れぬお坊さんが一人で行くと云うのは。「馬鹿云うな、口があれば京に上る、長崎から江戸に一人行くのに何のことがあるか。「けれども私は中津に帰てお母さんにいい様がない。「なあに構うものか、乃公は死も何もせぬから内のおッ母さんに宜しく云て呉れ、唯江戸に参りましたと云えば夫れで分る。鉄屋も何とも云うことが出来ぬ。「時に鉄屋、乃公は是から下ノ関に行こうと思うが、実は下ノ関を知らぬ。貴様は諸方を歩くが下ノ関に知てる船宿はないか。「私の懇意な内で船場屋寿久右衛門と云う船宿があります、其処へお入来なされば宜しいと云う。抑もこの事を態々鉄屋に聞かねばならぬと云うのは、実はその時私の懐中に金がない。内から呉れた金が一歩もあったか、その外に和蘭の字引の訳鍵と云う本を売て、掻集めた所で二歩二朱か三朱しかない。それで大阪まで行くには如何しても船賃が足らぬと云う見込だから、そこで一寸と船宿の名を聞て置て、夫れから鉄屋に別れて、諫早から丸木船と云う船が天草の海を渡る。五百八十文出してその船に乗れば明日の朝佐賀まで着くと云うので、その船に乗た所が、浪風なく朝佐賀に着て、佐賀から歩いたが、案内もなければ何もなく真実一身で、道筋の村の名も知らず宿々の順も知らずに、唯東の方に向て、小倉には如何行くかと道を聞て、筑前を通り抜けて、多分太宰府の近所を通ったろうと思いますが、小倉には三日めに着た。 贋手紙を作るその間の道中と云うものは随分困りました。一人旅、殊に何処の者とも知れぬ貧乏そうな若侍、若し行倒になるか暴れでもすれば宿屋が迷惑するから容易に泊めない。もう宿の善悪は択ぶに暇なく、只泊めて呉れさえすれば宜しいと云うので無暗に歩行いて、何か斯か二晩泊って三日目に小倉に着きました。その道中で私は手紙を書いて即ち鉄屋惣兵衛の贋手紙を拵えて、「この御方は中津の御家中、中村何様の若旦那で、自分は始終そのお屋敷に出入して決して間違なき御方だから厚く頼むと鹿爪らしき手紙の文句で、下ノ関船場屋寿久右衛門へ宛て鉄屋惣兵衛の名前を書いてちゃんと封をして、明日下ノ関に渡てこの手紙を用に立てんと思い、小倉までたどり付て泊った時はおかしかった。彼方此方マゴマゴして、小倉中、宿を捜したが、何処でも泊めない。ヤット一軒泊めて呉れた所が薄汚ない宿屋で、相宿の同間に人が寝て居る。スルト夜半に枕辺で小便する音がする。何だと思うと中風病の老爺が、しびんに遣てる。実は客ではない、その家の病人でしょう。その病人と並べて寝かされたので、汚くて堪らなかったのは能く覚えて居ます。 それから下ノ関の渡場を渡て、船場屋を捜し出して、兼て用意の贋手紙を持て行た所が、成程鉄屋とは懇意な家と見える、手紙を一見して早速泊めて呉れて、万事能く世話をして呉れて、大阪まで船賃が一分二朱、賄の代は一日若干、ソコデ船賃を払うた外に二百文か三百文しか残らぬ。併し大阪に行けば中津の倉屋敷で賄の代を払う事にして、是れも船宿で心能く承知して呉れる。悪い事だが全く贋手紙の功徳でしょう。 馬関の渡海小倉から下ノ関に船で来る時は怖い事がありました。途中に出た所が少し荒く風が吹て浪が立て来た。スルトその纜を引張て呉れ、其方の処を如何して呉れと、船頭が何か騒ぎ立て乗組の私に頼むから、ヨシ来たと云うので纜を引張たり柱を起したり、面白半分に様々加勢をして先ず滞りなく下ノ関の宿に着て、「今日の船は如何したのか、斯う/\云う浪風で、斯う云う目に遇た、潮を冠って着物が濡れたと云うと、宿の内儀さんが「それはお危ない事じゃ、彼れが船頭なら宜いが実は百姓です。この節暇なものですから内職にそんな事をします。百姓が農業の間に慣れぬ事をするから、少し浪風があると毎度大きな間違いを仕出来しますと云うのを聞て、実に怖かった。成程奴等が一生懸命になって私に加勢を頼んだのも道理だと思いました。 馬関より乗船夫れから船場屋寿久右衛門の処から乗た船には、三月の事で皆上方見物、夫れは/\種々様々な奴が乗て居る。間抜けな若旦那も乗て居れば、頭の禿た老爺も乗て居る、上方辺の茶屋女も居れば、下ノ関の安女郎も居る。坊主も、百姓も、有らん限りの動物が揃うて、其奴等が狭い船の中で、酒を飲み、博奕をする。下らぬ事に大きな声をして、聞かれぬ話をして、面白そうにしてる中に、私一人は真実無言、丸で取付端がない。船は安芸の宮島へ着た。私は宮島に用はない。唯来たから唯島を見に上る。外の連中はお互に朋友だから宜いだろう。皆酒を飲む。私も飲みたくて堪らぬけれども、金がないから只宮島を見たばかりで、船に帰て来てむしゃ/\船の飯を喰てるから、船頭もこんな客は忌やだろう、妙な顔をして私を睨んで居たのは今でも覚えて居る。その前に岩国の錦帯橋も余儀なく見物して、夫れから宮島を出て讃岐の金比羅様だ。多度津に船が着て金比羅まで三里と云う。行きたくないことはないが、金がないから行かれない。外の奴は皆船から出て行て、私一人で船の番をして居る。爾うすると一晩泊て、どいつもこいつもグデン/\に酔て陽気になって帰て来る。癪に障るけれども何としても仕様がない。 明石より上陸爾う云う不愉快な船中で、如何やら斯うやら十五日目に播州明石に着た。朝五ツ時、今の八時頃、明旦順風になれば船が出ると云う、けれどもコンナ連中のお供をしては際限がない。是れから大阪までは何里と聞けば、十五里と云う。「ヨシ、それじゃ乃公は是れから大阪まで歩いて行く。就ては是迄の勘定は、大阪に着たら中津の倉屋敷まで取りに来い、この荷物だけは預けて行くからと云うと、船頭が中々聞かない。「爾う旨くは行かぬ、一切勘定を払て行けと云う。云われても払う金は懐中にない。その時に私は更紗の着物と絹紬の着物と二枚あって、それを風呂敷に包んで持て居るから、「茲に着物が二枚ある、是れで賄の代位はあるだろう、外に書籍もあるが、是れは何にもならぬ。この着物を売ればその位の金にはなるではないか。大小を預ければ宜いが、是れは挟して行かねばならぬ。何時でも宜しい、船が大阪に着次第に中津屋敷で払て遣るから取りに来いと云うも、船頭は頑張て承知しない。「中津屋敷は知てるが、お前さんは知らぬ人じゃ。何でも船に乗て行きなさい。賄の代金は大阪で請取ると云う約束がしてあるからそれは宜しい。何日掛ても構わぬ、途中から上ることは出来ぬと云う。此方は只管頼むと小さくなって訳けを云えば、船頭は何でも聞かぬと剛情を張て段々声が大きくなる。喧嘩にもならず実に当惑して居た処に、同船中、下ノ関の商人風の男が出て来て、乃公が請合うと先ず発言して船頭に向い、「コレお前も爾う、いんごうな事を云うものじゃない。賄代の抵当に着物があるじゃないか。このお方はお侍じゃ、貴様達を騙す所存ではないように見受ける。若し騙したら乃公が払う、サアお上りなさいと云て、船頭も是れに安心して無理も云わず、ソレカラ私はその下ノ関の男に厚く礼を述て船を飛出し、地獄に仏と心の中にこの男を拝みました。 そこで明石から大阪まで十五里の間と云うものは、私は泊ることが出来ぬ。財布の中はモウ六、七十文、百に足らぬ銭で迚も一晩泊ることは出来ぬから、何でも歩かなければならぬ。途中何と云う処か知らぬが、左側の茶店で、一合十四文の酒を二合飲んで、大きな筍の煮たのを一皿と、飯を四、五杯喰て、夫れからグン/″\歩いて、今の神戸辺は先だか後だか、どう通たか少しも分らぬ。爾うして大阪近くなると、今の鉄道の道らしい川を幾川も渡て、有難い事にお侍だから船賃は只で宜かったが、日は暮れて暗夜で真暗、人に逢わなければ道を聞くことが出来ず、夜中淋しい処で変な奴に逢えば却て気味が悪い。その時私の指してる大小は、脇差は祐定の丈夫な身であったが、刀は太刀作りの細身でどうも役に立ちそうでなくて心細かった。実を云えば大阪近在に人殺しの無暗に出る訳けもない、ソンナに怖がる事はない筈だが、独旅の夜道、真暗ではあるし臆病神が付いてるから、ツイ腰の物を便りにするような気になる。後で考えれば却て危ない事だと思う。ソレカラ始終道を聞くには、幼少の時から中津の倉屋敷は大阪堂島玉江橋と云うことを知てるから、唯大阪の玉江橋へはどう行くかとばかり尋ねて、ヤット夜十時過ぎでもあろう、中津屋敷に着て兄に逢たが、大変に足が痛かった。 大阪着大阪に着て久振で兄に逢うのみならず、屋敷の内外に幼ない時から私を知てる者が沢山ある。私は三歳の時に国に帰て二十二歳に再び行たのですから、私の生れた時に知てる者は沢山。私の面が何処か幼顔に肖て居ると云うその中には、私に乳を呑まして呉れた仲仕の内儀さんもあれば、又今度兄の供をして中津から来て居る武八と云う極質朴な田舎男は、先年も大阪の私の家に奉公して私のお守をした者で、私が大阪に着た翌日、この男を連れて堂島三丁目か四丁目の処を通ると、男の云うに、お前の生れる時に我身夜中にこの横町の彼の産婆さんの処に迎いに行たことがある、その産婆さんは今も達者にし居る、それからお前が段々大きくなって、此身お前をだいて毎日々々湊の部屋(勧進元)に相撲の稽古を見に行た、その産婆さんの家は彼処じゃ湊の稽古場は此処の方じゃと、指をさして見せたときには、私も旧を懐うて胸一杯になって思わず涙をこぼしました。都て如斯な訳けで私はどうも旅とは思われぬ、真実故郷に帰た通りで誠に宜い心地。それから兄が私に如何して貴様は出し抜けに此処に来たのかという。兄の事であるから構わず斯う云う次第で参りましたと云たら、「乃公が居なければ宜いが、道の順序を云て見れば貴様は長崎から来るのに中津の方が順路だ。その中津を横に見ておッ母さんの処を避て来たではないか。それも乃公が此処に居なければ兎も角、乃公が此処で貴様に面会しながら之を手放して江戸に行けと云えば兄弟共謀だ。如何にも済まぬではないか。おッ母さんは夫程に思わぬだろうが、如何しても乃公が済まぬ。それよりか大阪でも先生がありそうなものじゃ、大阪で蘭学を学ぶが宜いと云うので、兄の処に居て先生を捜したら緒方と云う先生のある事を聞出した。 長崎遊学中の逸事鄙事多能は私の独得、長崎に居る間は山本先生の家に食客生と為り、無暗に勉強して蘭学も漸く方角の分るようになるその片手に、有らん限り先生家の家事を勤めて、上中下の仕事なんでも引請けて、是れは出来ない、其れは忌だと云たことはない。丁度上方辺の大地震のとき、私は先生家の息子に漢書の素読をして遣た跡で、表の井戸端で水を汲んで、大きな荷桶を担いで一足跡出すその途端にガタ/″\と動揺て足が滑り、誠に危ない事がありました。 寺の和尚、今は既に物故したそうですが、是れは東本願寺の末寺、光永寺と申して、下寺の三ヶ寺も持て居る先ず長崎では名のある大寺、そこの和尚が京に上って何か立身して帰て来て、長崎の奉行所に廻勤に行くその若党に雇われてお供をした所が、和尚が馬鹿に長い衣か装束か妙なものを着て居て、奉行所の門で駕籠を出ると、私が後からその裾を持てシヅ/″\と附いて歩いて行く。吹出しそうに可笑しい。又その和尚が正月になると大檀那の家に年礼に行くそのお供をすれば、坊さんが奥で酒でも飲でる供待の間に、供の者にも膳を出して雑煮など喰わせる。是れは難有く戴きました。 又節分に物貰いをしたこともある。長崎の風に、節分の晩に法螺の貝を吹て何か経文のような事を怒鳴って廻わる、東京で云えば厄払い、その厄払をして市中の家の門に立てば、銭を呉れたり米を呉れたりすることがある。所が私の居る山本の隣家に杉山松三郎(杉山徳三郎の実兄)と云う若い男があって、面白い人物。「どうだ今夜行こうじゃないかと私を誘うから、勿論同意。ソレカラ何処かで法螺の貝を借りて来て、面を隠して二人で出掛けて、杉山が貝を吹く、お経の文句は、私が少年の時に暗誦して居た蒙求の表題と千字文で請持ち、王戎簡要天地玄黄なんぞ出鱈目に怒鳴り立てゝ、誠に上首尾、銭だの米だの随分相応に貰て来て、餅を買い鴨を買い雑煮を拵えてタラフク喰た事がある。 師弟アベコベ私が始めて長崎に来て始めて横文字を習うと云うときに、薩州の医学生に松崎鼎甫と云う人がある。その時に藩主薩摩守は名高い西洋流の人物で、藩中の医者などに蘭学を引立て、松崎も蘭学修業を命ぜられて長崎に出て来て下宿屋に居るから、その人に頼んで教えて貰うが宜かろうと云うので行た所が、松崎が abc を書いて仮名を附けて呉れたのには先ず驚いた。是れが文字とは合点が行かぬ。二十何字を覚えて仕舞うにも余程手間が掛たが、学べば進むの道理で、次第々々に蘭語の綴も分るようになって来た。ソコデ松崎と云う先生の人相を見て応対の様子を察するに、決して絶倫の才子でない。依て私の心中窃に、「是れは高の知れた人物だ。今でも漢書を読で見ろ、自分の方が数等上流の先生だ。漢蘭等しく字を読み義を解することゝすれば、左までこの先生を恐るゝことはない。如何かしてアベコベにこの男に蘭書を教えて呉れたいものだと、生々の初学生が無鉄砲な野心を起したのは全く少年の血気に違いない。ソレはそれとしてその後私は大阪に行き、是れまで長崎で一年も勉強して居たから緒方でも上達が頗る速くて、両三年の間に同窓生八、九十人の上に頭角を現わした。所が人事の廻り合せは不思議なもので、その松崎と云う男が九州から出て来て緒方の塾に這入り、私はその時ズット上級で、下級生の会頭をして居るその会読に、松崎も出席することになって、三、四年の間に今昔の師弟アベコベ。私の無鉄砲な野心が本当な事になって、固より人には云われず、又云うべきことでないから黙て居たが、その時の愉快は堪らない。独り酒を飲で得意がって居ました。左れば軍人の功名手柄、政治家の立身出世、金持の財産蓄積なんぞ、孰れも熱心で、一寸と見ると俗なようで、深く考えると馬鹿なように見えるが、決して笑うことはない。ソンナ事を議論したり理窟を述べたりする学者も、矢張り同じことで、世間並に俗な馬鹿毛た野心があるから可笑しい。
Table of contents
Inside this edition
- 01Full text
- 02幼少の時
- 03長崎遊学
- 04大阪修業
- 05緒方の塾風
- 06大阪を去て江戸に行く
- 07始めて亜米利加に渡る
- 08欧羅巴各国に行く
- 09攘夷論
- 10再度米国行
- 11王政維新
- 12暗殺の心配
- 13雑記
- 14一身一家経済の由来
- 15品行家風
- 16老余の半生
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