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ヰタ・セクスアリス cover

Japanese Edition

Literature

ヰタ・セクスアリス

Japanese BooksWhale Edition by Mori Ogai

哲学者金井湛の手記を通して、幼年期からの性の意識と自己理解をたどる森鴎外の小説。

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Book introduction

ヰタ・セクスアリス

哲学を職業とする金井湛は、自分の性の経験を振り返り、それが精神生活のなかでどのような位置を占めてきたかを考える。幼年期、学校生活、他者との出会いを記す手記と、その執筆をめぐる枠の物語によって、森鴎外は個人の記憶、教育、社会の慎みや隠し事を問い直していく。

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森鴎外は1922年没。本作は1909年発表。青空文庫の日本語原文を用い、底本案内、入力者注、ルビなどの付加情報を除いて本文を収録した。

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金井湛君は哲学が職業である。

哲学者という概念には、何か書物を書いているということが伴う。金井君は哲学が職業である癖に、なんにも書物を書いていない。文科大学を卒業するときには、外道哲学と Sokrates 前の希臘哲学との比較的研究とかいう題で、余程へんなものを書いたそうだ。それからというものは、なんにも書かない。

しかし職業であるから講義はする。講座は哲学史を受け持っていて、近世哲学史の講義をしている。学生の評判では、本を沢山書いている先生方の講義よりは、金井先生の講義の方が面白いということである。講義は直観的で、或物の上に強い光線を投げることがある。そういうときに、学生はいつまでも消えない印象を得るのである。殊に縁の遠い物、何の関係もないような物を藉りて来て或物を説明して、聴く人がはっと思って会得するというような事が多い。Schopenhauer は新聞の雑報のような世間話を材料帳に留めて置いて、自己の哲学の材料にしたそうだが、金井君は何をでも哲学史の材料にする。真面目な講義の中で、その頃青年の読んでいる小説なんぞを引いて説明するので、学生がびっくりすることがある。

小説は沢山読む。新聞や雑誌を見るときは、議論なんぞは見ないで、小説を読む。しかし若し何と思って読むかということを作者が知ったら、作者は憤慨するだろう。芸術品として見るのではない。金井君は芸術品には非常に高い要求をしているから、そこいら中にある小説はこの要求を充たすに足りない。金井君には、作者がどういう心理的状態で書いているかということが面白いのである。それだから金井君の為めには、作者が悲しいとか悲壮なとかいう積で書いているものが、極て滑稽に感ぜられたり、作者が滑稽の積で書いているものが、却て悲しかったりする。

金井君も何か書いて見たいという考はおりおり起る。哲学は職業ではあるが、自己の哲学を建設しようなどとは思わないから、哲学を書く気はない。それよりは小説か脚本かを書いて見たいと思う。しかし例の芸術品に対する要求が高い為めに、容易に取り附けないのである。

そのうちに夏目金之助君が小説を書き出した。金井君は非常な興味を以て読んだ。そして技癢を感じた。そうすると夏目君の「我輩は猫である」に対して、「我輩も猫である」というようなものが出る。「我輩は犬である」というようなものが出る。金井君はそれを見て、ついつい嫌になってなんにも書かずにしまった。

そのうち自然主義ということが始まった。金井君はこの流義の作品を見たときは、格別技癢をば感じなかった。その癖面白がることは非常に面白がった。面白がると同時に、金井君は妙な事を考えた。

金井君は自然派の小説を読む度に、その作中の人物が、行住坐臥造次顛沛、何に就けても性欲的写象を伴うのを見て、そして批評が、それを人生を写し得たものとして認めているのを見て、人生は果してそんなものであろうかと思うと同時に、或は自分が人間一般の心理的状態を外れて性欲に冷澹であるのではないか、特に frigiditas とでも名づくべき異常な性癖を持って生れたのではあるまいかと思った。そういう想像は、zola の小説などを読んだ時にも起らぬではなかった。しかしそれは Germinal やなんぞで、労働者の部落の人間が、困厄の極度に達した処を書いてあるとき、或る男女の逢引をしているのを覗きに行く段などを見て、そう思ったのであるが、その時の疑は、なんで作者がそういう処を、わざとらしく書いているだろうというのであって、それが有りそうでない事と思ったのでは無い。そんな事もあるだろうが、それを何故作者が書いたのだろうと疑うに過ぎない。即ち作者一人の性欲的写象が異常ではないかと思うに過ぎない。小説家とか詩人とかいう人間には、性欲の上には異常があるかも知れない。この問題は Lombroso なんぞの説いている天才問題とも関係を有している。〔Mo:bius〕 一派の人が、名のある詩人や哲学者を片端から掴まえて、精神病者として論じているも、そこに根柢を有している。しかし近頃日本で起った自然派というものはそれとは違う。大勢の作者が一時に起って同じような事を書く。批評がそれを人生だと認めている。その人生というものが、精神病学者に言わせると、一々の写象に性欲的色調を帯びているとでも云いそうな風なのだから、金井君の疑惑は前より余程深くなって来たのである。

そのうちに出歯亀事件というのが現われた。出歯亀という職人が不断女湯を覗く癖があって、あるとき湯から帰る女の跡を附けて行って、暴行を加えたのである。どこの国にも沢山ある、極て普通な出来事である。西洋の新聞ならば、紙面の隅の方の二三行の記事になる位の事である。それが一時世間の大問題に膨脹する。所謂自然主義と聯絡を附けられる。出歯亀主義という自然主義の別名が出来る。出歯るという動詞が出来て流行する。金井君は、世間の人が皆色情狂になったのでない限は、自分だけが人間の仲間はずれをしているかと疑わざることを得ないことになった。

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「遊びましょうやあ」

これが挨拶である。僕は忽ち一計を案じ出した。

「うむ。あの縁から飛んで遊ぼう」

こう云って草履を脱いで縁に上った。勝も附いて来て、赤い緒の雪踏を脱いで上った。僕は先ず跣足で庭の苔の上に飛び降りた。勝も飛び降りた。僕は又縁に上って、尻を褰った。

「こうして飛ばんと、着物が邪魔になって行けん」

僕は活溌に飛び降りた。見ると、勝はぐずぐずしている。

「さあ。あんたも飛びんされえ」

勝は暫く困ったらしい顔をしていたが、無邪気な素直な子であったので、とうとう尻を褰って飛んだ。僕は目を円くして覗いていたが、白い脚が二本白い腹に続いていて、なんにも無かった。僕は大いに失望した。Operaglass で ballet を踊る女の股の間を覗いて、羅に織り込んである金糸の光るのを見て、失望する紳士の事を思えば、罪のない話である。

その歳の秋であった。

僕の国は盆踊の盛な国であった。旧暦の盂蘭盆が近づいて来ると、今年は踊が禁ぜられるそうだという噂があった。しかし県庁で他所産の知事さんが、僕の国のものに逆うのは好くないというので、黙許するという事になった。

内から二三丁ばかり先は町である。そこに屋台が掛かっていて、夕方になると、踊の囃子をするのが内へ聞える。

踊を見に往っても好いかと、お母様に聞くと、早く戻るなら、往っても好いということであった。そこで草履を穿いて駈け出した。

これまでも度々見に往ったことがある。もっと小さい時にはお母様が連れて行って見せて下すった。踊るものは、表向は町のものばかりというのであるが、皆頭巾で顔を隠して踊るのであるから、侍の子が沢山踊りに行く。中には男で女装したのもある。女で男装したのもある。頭巾を着ないものは百眼というものを掛けている。西洋でする Carneval は一月で、季節は違うが、人間は自然に同じような事を工夫し出すものである。西洋にも、収穫の時の踊は別にあるが、その方には仮面を被ることはないようである。

大勢が輪になって踊る。覆面をして踊りに来て、立って見ているものもある。見ていて、気に入った踊手のいる処へ、いつでも割り込むことが出来るのである。

僕は踊を見ているうちに、覆面の連中の話をするのがふいと耳に入った。識りあいの男二人と見える。

「あんたあゆうべ愛宕の山へ行きんさったろうがの」

「譃を言いんさんな」

「いいや。何でも行きんさったちゅう事じゃ」

こういうような問答をしていると、今一人の男が側から口を出した。

「あそこにゃあ、朝行って見ると、いろいろな物が落ちておるげな」

跡は笑声になった。僕は穢い物に障ったような心持がして、踊を見るのを止めて、内へ帰った。

*

十一になった。

お父様が東京へ連れて出て下すった。お母様は跡に残ってお出なすった。いつも手伝に来る婆あさんが越して来て、一しょにいるのである。少し立てば、跡から行くということであった。多分家屋敷が売れるまで残ってお出なすったのであろう。

旧藩の殿様のお邸が向島にある。お父様はそこのお長屋のあいているのにはいって、婆あさんを一人雇って、御飯を焚かせて暮らしてお出になる。

お父様は毎日出て、晩になってお帰になる。僕の行く学校をも捜して下さるということであった。お父様がお出掛になると、二十ばかりの上さんが勝手口へ来て、前掛を膨らませて帰って行く。これは婆あさんが米を盗んで、娘に持たせて遣るのであった。後にお母様がお出になって、この事が知れて、婆あさんは逐い出された。僕は余程ぼんやりした小僧であった。

一しょに遊んでくれる子供もない。家職のものの息子で、年が二つばかり下なのがいたが、初て逢った日に、お邸の池の鯉を釣ろうと云ったので、嫌になって一しょに遊ばない事にした。家扶の娘の十二三になるのを頭にして、娘が二三人いたが、僕を見ると遠い処から指ざしなんぞをして、咡きあって笑ったり何かする。これも嫌な女どもだと思った。

御殿のお次に行って見る。家従というものが二三人控えている。大抵烟草を飲んで雑談をしている。おれがいても、別に邪魔にもしない。そこで色々な事を聞いた。

最も屡ば話の中に出て来るのは吉原という地名と奥山という地名とである。吉原は彼等の常に夢みている天国である。そしてその天国の荘厳が、幾分かお邸の力で保たれているということである。家令はお邸の金を高い利で吉原のものに貸す。その縁故で彼等が行くと、特に優待せられるそうだ。そこで手ん手に吉原へ行った話をする。聞いていても半分は分らない。又半分位分るようであるが、それがちっとも面白くない。中にはこんな事をいう男がある。

「こんだあ、あんたを連れて行って上げうかあ。綺麗な女郎が可哀がってくれるぜえ」

そういう時にはみんなが笑う。

奥山の話は榛野という男の事に連帯して出るのが常になっている。家従どもは大抵菊石であったり、獅子鼻であったり、反歯であったり、満足な顔はしていない。それと違って榛野というのは、色の白い、背の高い男で、髪を長くして、油を附けて、項まで分けていた。この男は何という役であったか知らぬが、先ず家従どもの上席位の待遇を受けて、文書の立案というような事をしていた。家従どもはこんな事を言う。

「榛野さあのように大事にして貰われれば、こっちとらも奥山へ行くけえど、銭う払うて楊弓を引いても、ろくに話もしてくれんけえ、ほんつまらんいのう」

榛野はこの仲間の Adonis であった。そして僕は程なくこの男のために Aphrodite たり、また Persephone たる女子どもを見ることを得たのである。

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鰐口は女を馬鹿にしているばかりはでない。あらゆる物を馬鹿にしている。彼の目中には神聖なるものが絶待的に無い。折々僕のお父様が寄宿舎に尋ねて来られる。お父様が、倅は子供同様であるから頼むと挨拶をなさると、鰐口は只はあはあと云って取り合わない。そして黙ってお父様の僕に訓戒をして下さるのを聞いていて、跡で声いろを遣う。

「精出して勉強しんされえ。鰐口君でもどなたでも、長者の云いんさることは、聴かにゃあ行けんぜや。若し腑に落ちんことがあるなら、どういうわけでそう為にゃならんのか、分りませんちゅうて、教えて貰いんされえ。わしはこれで帰る。土曜には待っとるから、来んされえ。あはははは」

それからはお父様の事を「来んされえ」と云う。今日あたりは又来んされえの来る頃だ。又最中にありつけるだろうなんぞと云う。人の親を思う情だからって何だからって、いたわってくれるということはない。「あの来んされえが君のおっかさんと孳尾んで君を拵えたのだ。あはははは」などと云う。お国の木戸にいたお爺さんと択ぶことなしである。

鰐口は講堂での出来は中くらいである。独逸人の教師は、答の出来ない生徒を塗板の前へ直立させて置く例になっていた。或るとき鰐口が答が出来ないので、教師がそこに立っていろと云った。鰐口は塗板に背中を持たせて空を嘯いた。塗板はがたりと鳴った。教師は火のようになって怒って、とうとう幹事に言って鰐口を禁足にした。しかしそれからは教師も鰐口を憚っていた。

教師が憚るくらいであるから、級中鰐口を憚らないものはない。鰐口は僕に保護を加えはしないが、鰐口のいる処へ来て、僕に不都合な事をするものは無い。鰐口は外出するとき、僕にこう云って出て行く。

「おれがおらんと、又穴を覗う馬鹿もの共が来るから、用心しておれ」

僕は用心している。寄宿舎は長屋造であるから出口は両方にある。敵が右から来れば左へ逃げる。左から来れば右へ逃げる。それでも心配なので、あるとき向島の内から、短刀を一本そっと持って来て、懐に隠していた。

二月頃に久しく天気が続いた。毎日学課が済むと、埴生と運動場へ出て遊ぶ。外の生徒は二人が盛砂の中で角力を取るのを見て、まるで狗児のようだと云って冷かしていた。やあ、黒と白が喧嘩をしている、白、負けるななどと声を掛けて通るものもあった。埴生と僕とはこんな風にして遊んでも、別に話はしない。僕は貸本をむやみに読んで、子供らしい空想の世界に住している。埴生は教場の外ではじっとしていない性なので、本なぞは読まない。一しょに遊ぶと云えば、角力を取る位のものであった。

或る寒さの強い日の事である。僕は埴生と運動場へ行って、今日は寒いから駆競にしようというので、駈競をして遊んで帰って見ると、鰐口の処へ、同級の生徒が二三人寄って相談をしている。間食の相談である。大抵間食は弾豆か焼芋で、生徒は醵金をして、小使に二銭の使賃を遣って、買って来させるのである。今日はいつもと違って、大いに奢るというので、盲汁ということをするのだそうだ。てんでに出て何か買って来て、それを一しょに鍋に叩き込んで食うのである。一人の男が僕の方を見て、金井はどうしようと云った。鰐口は僕を横目に見て、こう云った。

「芋を買う時とは違う。小僧なんぞは仲間に這入らなくても好い」

僕は傍を向いて聞かない振をしていた。誰を仲間に入れるとか入れないとか云って、暫く相談していたが、程なく皆出て行った。

鰐口の性質は平生知っている。彼は権威に屈服しない。人と苟も合うという事がない。そこまでは好い。しかし彼が何物をも神聖と認めない為めに、傍のものが苦痛を感ずることがある。その頃僕は彼の性質を刻薄だと思っていた。それには、彼が漢学の素養があって、いつも机の上に韓非子を置いていたのも、与って力があったのだろう。今思えば刻薄という評は黒星に中っていない。彼は cynic なのである。僕は後に Theodor Vischer の書いた Cynismus を読んでいる間、始終鰐口の事を思って読んでいた。Cynic という語は希臘の kyon 犬という語から出ている。犬学などという訳語があるからは、犬的と云っても好いかも知れない。犬が穢いものへ鼻を突込みたがる如く、犬的な人は何物をも穢くしなくては気が済まない。そこで神聖なるものは認められないのである。人は神聖なるものを多く有しているだけ、弱点が多い。苦痛が多い。犬的な人に逢っては叶わない。

鰐口は人に苦痛を覚えさせるのが常になっている。そこで人の苦痛を何とも思わない。刻薄な処はここから生じて来る。強者が弱者を見れば可笑しい。可笑しいと面白い。犬的な人は人の苦痛を面白がるようになる。

僕だって人が大勢集って煮食をするのを、ひとりぼんやりして見ているのは苦痛である。それを鰐口は知っていて、面白半分に仲間に入れないのである。

僕は皆が食う間外へ出ていようかと思った。しかし出れば逃げるようだ。自分の部屋であるのに、人に勝手な事をせられて逃げるのは残念だと思った。さればといって、口に唾の湧くのを呑み込んでいたら彼等に笑われるだろう。僕は外へ出て最中を十銭買って来た。その頃は十銭最中を買うと、大袋に一ぱいあった。それを机の下に抛り込んで置いて、ランプを附けて本を見ていた。

Table of contents

Inside this edition

  1. 01Part 1
  2. 02Part 2
  3. 03Part 3
  4. 04Part 4
  5. 05Part 5
  6. 06Part 6
  7. 07Part 7

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