
Japanese Edition
Philosophy
善の研究
Japanese BooksWhale Edition by Nishida Kitarō
純粋経験、実在、善、宗教をめぐる日本近代哲学の代表的著作。
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Book introduction
善の研究
『善の研究』は、西田幾多郎が純粋経験を出発点として実在、意識、意志、善、宗教を論じた日本近代哲学の古典です。東西思想を背景に、経験と価値の根本問題を独自の言葉で探究しています。
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西田幾多郎は1945年に没し、『善の研究』は1911年に刊行されました。作者の没年と初刊行年は、この日本語原文版の公版性を判断する根拠になります。
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善の研究
西田幾多郎
Preview chapter序Preview
この書は余が多年、金沢なる第四高等学校において教鞭を執っていた間に書いたのである。初はこの書の中、特に実在に関する部分を精細に論述して、すぐにも世に出そうという考であったが、病と種々の事情とに妨げられてその志を果すことができなかった。かくして数年を過している中に、いくらか自分の思想も変り来り、従って余が志す所の容易に完成し難きを感ずるようになり、この書はこの書として一先ず世に出して見たいという考になったのである。 この書は第二編第三編が先ず出来て、第一編第四編という順序に後から附加したものである。第一編は余の思想の根柢である純粋経験の性質を明にしたものであるが、初めて読む人はこれを略する方がよい。第二編は余の哲学的思想を述べたものでこの書の骨子というべきものである。第三編は前編の考を基礎として善を論じた積であるが、またこれを独立の倫理学と見ても差支ないと思う。第四編は余が、かねて哲学の終結と考えている宗教について余の考を述べたものである。この編は余が病中の作で不完全の処も多いが、とにかくこれにて余がいおうと思うていることの終まで達したのである。この書を特に「善の研究」と名づけた訳は、哲学的研究がその前半を占め居るにも拘らず、人生の問題が中心であり、終結であると考えた故である。 純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明して見たいというのは、余が大分前から有っていた考であった。初はマッハなどを読んで見たが、どうも満足はできなかった。そのうち、個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである、個人的区別より経験が根本的であるという考から独我論を脱することができ、また経験を能動的と考うることに由ってフィヒテ以後の超越哲学とも調和し得るかのように考え、遂にこの書の第二編を書いたのであるが、その不完全なることはいうまでもない。 思索などする奴は緑の野にあって枯草を食う動物の如しとメフィストに嘲らるるかも知らぬが、我は哲理を考えるように罰せられているといった哲学者(ヘーゲル)もあるように、一たび禁断の果を食った人間には、かかる苦悩のあるのも已むを得ぬことであろう。 明治四十四年一月京都にて 西田幾多郎
再版の序
この書を出版してから既に十年余の歳月を経たのであるが、この書を書いたのはそれよりもなお幾年の昔であった。京都に来てから読書と思索とに専なることを得て、余もいくらか余の思想を洗練し豊富にすることを得た。従ってこの書に対しては飽き足らなく思うようになり、遂にこの書を絶版としようと思うたのである。しかしその後諸方からこの書の出版を求められるのと、余がこの書の如き形において余の思想の全体を述べ得るのはなお幾年の後なるかを思い、再びこの書を世に出すこととした。今度の出版に当りて、務台、世良の両文学士が余の為に字句の訂正と校正との労を執られたのは、余が両君に対し感謝に堪えざる所である。 大正十年一月西田幾多郎
版を新にするに当って
この書刷行を重ねること多く、文字も往々鮮明を欠くものがあるようになったので、今度|書肆において版を新にすることになった。この書は私が多少とも自分の考をまとめて世に出した最初の著述であり、若かりし日の考に過ぎない。私はこの際この書に色々の点において加筆したいのであるが、思想はその時々に生きたものであり、幾十年を隔てた後からは筆の加えようもない。この書はこの書としてこの儘として置くの外はない。 今日から見れば、この書の立場は意識の立場であり、心理主義的とも考えられるであろう。然非難せられても致方はない。しかしこの書を書いた時代においても、私の考の奥底に潜むものは単にそれだけのものでなかったと思う。純粋経験の立場は「自覚における直観と反省」に至って、フィヒテの事行の立場を介して絶対意志の立場に進み、更に「働くものから見るものへ」の後半において、ギリシャ哲学を介し、一転して「場所」の考に至った。そこに私は私の考を論理化する端緒を得たと思う。「場所」の考は「弁証法的一般者」として具体化せられ、「弁証法的一般者」の立場は「行為的直観」の立場として直接化せられた。この書において直接経験の世界とか純粋経験の世界とかいったものは、今は歴史的実在の世界と考えるようになった。行為的直観の世界、ポイエシスの世界こそ真に純粋経験の世界であるのである。 フェヒネルは或朝ライプチヒのローゼンタールの腰掛に休らいながら、日|麗に花|薫り鳥歌い蝶舞う春の牧場を眺め、色もなく音もなき自然科学的な夜の見方に反して、ありの儘が真である昼の見方に耽ったと自らいっている。私は何の影響によったかは知らないが、早くから実在は現実そのままのものでなければならない、いわゆる物質の世界という如きものはこれから考えられたものに過ぎないという考を有っていた。まだ高等学校の学生であった頃、金沢の街を歩きながら、夢みる如くかかる考に耽ったことが今も思い出される。その頃の考がこの書の基ともなったかと思う。私がこの書を物せし頃、この書がかくまでに長く多くの人に読まれ、私がかくまでに生き長らえて、この書の重版を見ようとは思いもよらないことであった。この書に対して、命なりけり小夜の中山の感なきを得ない。 昭和十一年十月著者
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第一編 純粋経験
Table of contents
Inside this edition
- 01Full text
- 02序
- 03第一編 純粋経験
- 04第一章 純粋経験
- 05第二章 思惟
- 06第三章 意志
- 07第四章 知的直観
- 08第二編 実在
- 09第一章 考究の出立点
- 10第二章 意識現象が唯一の実在である
- 11第三章 実在の真景
- 12第四章 真実在は常に同一の形式を有っている
- 13第五章 真実在の根本的方式
- 14第六章 唯一実在
- 15第七章 実在の分化発展
- 16第八章 自然
- 17第九章 精神
- 18第十章 実在としての神
- 19第三編 善
- 20第一章 行為上
- 21第二章 行為下
- 22第三章 意志の自由
- 23第四章 価値的研究
- 24第五章 倫理学の諸説 その一
- 25第六章 倫理学の諸説 その二
- 26第七章 倫理学の諸説 その三
- 27第八章 倫理学の諸説 その四
- 28第九章 善(活動説)
- 29第十章 人格的善
- 30第十一章 善行為の動機(善の形式)
- 31第十二章 善行為の目的(善の内容)
- 32第十三章 完全なる善行
- 33第四編 宗教
- 34第一章 宗教的要求
- 35第二章 宗教の本質
- 36第三章 神
- 37第四章 神と世界
- 38第五章 知と愛
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