
japonais Édition
Littérature
青年
Édition BooksWhale en japonais par Mori Ogai
作家を志す青年・小泉純一が東京で出会う人々を通して、文学への憧れと思想、恋愛の迷いを描く長編小説。
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Introduction du livre
青年
地方から上京した小泉純一は、作家になることを望み、東京の文学者や若者たちと交流する。読書や議論、女性との出会いを重ねるなかで、自分の考え方と生き方を探っていく。森鴎外は、青年の内面と都市の生活を結びつけ、文学への憧れ、思想への関心、恋愛や将来への戸惑いを描く。明治末期の知的な環境を背景とする日本語の長編小説。
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森鴎外は1922年に没した。本作は1910年に刊行され、原著の著作権保護期間は満了している。本版は日本語の原文を収録する。
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青年
Chapitre d'aperçu壱Aperçu
小泉純一は芝日蔭町の宿屋を出て、東京方眼図を片手に人にうるさく問うて、新橋停留場から上野行の電車に乗った。目まぐろしい須田町の乗換も無事に済んだ。さて本郷三丁目で電車を降りて、追分から高等学校に附いて右に曲がって、根津権現の表坂上にある袖浦館という下宿屋の前に到着したのは、十月二十何日かの午前八時であった。
此処は道が丁字路になっている。権現前から登って来る道が、自分の辿って来た道を鉛直に切る処に袖浦館はある。木材にペンキを塗った、マッチの箱のような擬西洋造である。入口の鴨居の上に、木札が沢山並べて嵌めてある。それに下宿人の姓名が書いてある。
純一は立ち留まって名前を読んで見た。自分の捜す大石狷太郎という名は上から二三人目に書いてあるので、すぐに見附かった。赤い襷を十文字に掛けて、上り口の板縁に雑巾を掛けている十五六の女中が雑巾の手を留めて、「どなたの所へいらっしゃるの」と問うた。
「大石さんにお目に掛りたいのだが」
田舎から出て来た純一は、小説で読み覚えた東京詞を使うのである。丁度不慣な外国語を使うように、一語一語考えて見て口に出すのである。そしてこの返事の無難に出来たのが、心中で嬉しかった。
雑巾を掴んで突っ立った、ませた、おちゃっぴいな小女の目に映じたのは、色の白い、卵から孵ったばかりの雛のような目をしている青年である。薩摩絣の袷に小倉の袴を穿いて、同じ絣の袷羽織を着ている。被物は柔かい茶褐の帽子で、足には紺足袋に薩摩下駄を引っ掛けている。当前の書生の風俗ではあるが、何から何まで新しい。これで昨夕始めて新橋に着いた田舎者とは誰にも見えない。小女は親しげに純一を見て、こう云った。
「大石さんの所へいらっしったの。あなた今時分いらっしったって駄目よ。あの方は十時にならなくっちゃあ起きていらっしゃらないのですもの。ですから、いつでも御飯は朝とお午とが一しょになるの。お帰りが二時になったり、三時になったりして、それからお休みになると、一日寐ていらっしってよ」
「それじゃあ、少し散歩をしてから、又来るよ」
「ええ。それが好うございます」
純一は権現前の坂の方へ向いて歩き出した。二三歩すると袂から方眼図の小さく折ったのを出して、見ながら歩くのである。自分の来た道では、官員らしい、洋服の男や、角帽の学生や、白い二本筋の帽を被った高等学校の生徒や、小学校へ出る子供や、女学生なんぞが、ぞろぞろと本郷の通の方へ出るのに擦れ違ったが、今坂の方へ曲って見ると、まるで往来がない。右は高等学校の外囲、左は角が出来たばかりの会堂で、その傍の小屋のような家から車夫が声を掛けて車を勧めた処を通り過ぎると、土塀や生垣を繞らした屋敷ばかりで、その間に綺麗な道が、ひろびろと附いている。
広い道を歩くものが自分ひとりになると共に、この頃の朝の空気の、毛髪の根を緊縮させるような渋み味を感じた。そして今小女に聞いた大石の日常の生活を思った。国から態々逢いに出て来た大石という男を、純一は頭の中で、朧気でない想像図にえがいているが、今聞いた話はこの図の輪廓を少しも傷けはしない。傷けないばかりではない、一層明確にしたように感ぜられる。大石というものに対する、純一が景仰と畏怖との或る混合の感じが明確になったのである。
坂の上に出た。地図では知れないが、割合に幅の広いこの坂はSの字をぞんざいに書いたように屈曲して附いている。純一は坂の上で足を留めて向うを見た。
灰色の薄曇をしている空の下に、同じ灰色に見えて、しかも透き徹った空気に浸されて、向うの上野の山と自分の立っている向うが岡との間の人家の群が見える。ここで目に映ずるだけの人家でも、故郷の町程の大さはあるように思われるのである。純一は暫く眺めていて、深い呼吸をした。
坂を降りて左側の鳥居を這入る。花崗岩を敷いてある道を根津神社の方へ行く。下駄の磬のように鳴るのが、好い心持である。剥げた木像の据えてある随身門から内を、古風な瑞籬で囲んである。故郷の家で、お祖母様のお部屋に、錦絵の屏風があった。その絵に、どこの神社であったか知らぬが、こんな瑞垣があったと思う。社殿の縁には、ねんねこ絆纏の中へ赤ん坊を負って、手拭の鉢巻をした小娘が腰を掛けて、寒そうに体を竦めている。純一は拝む気にもなれぬので、小さい門を左の方へ出ると、溝のような池があって、向うの小高い処には常磐木の間に葉の黄ばんだ木の雑った木立がある。濁ってきたない池の水の、所々に泡の浮いているのを見ると、厭になったので、急いで裏門を出た。
Chapitre d'aperçu弐Aperçu
二階の八畳である。東に向いている、西洋風の硝子窓二つから、形紙を張った向側の壁まで一ぱいに日が差している。この袖浦館という下宿は、支那学生なんぞを目当にして建てたものらしい。この部屋は近頃まで印度学生が二人住まって、籐の長椅子の上にごろごろしていたのである。その時廉い羅氈の敷いてあった床に、今は畳が敷いてあるが、南の窓の下には記念の長椅子が置いてある。
テエブルの足を切ったような大机が、東側の二つの窓の間の処に、少し壁から離して無造作に据えてある。何故窓の前に置かないのだと、友達がこの部屋の主人に問うたら、窓掛を引けば日が這入らない、引かなければ目ぶしいと云った。窓掛の白木綿で、主人が濡手を拭いたのを、女中が見て亭主に告口をしたことがある。亭主が苦情を言いに来た処が、もう洗濯をしても好い頃だと、あべこべに叱って恐れ入らせたそうだ。この部屋の主人は大石狷太郎である。
大石は今顔を洗って帰って来て、更紗の座布団の上に胡坐をかいて、小さい薬鑵の湯気を立てている火鉢を引き寄せて、敷島を吹かしている。そこへ女中が膳を持って来る。その膳の汁椀の側に、名刺が一枚載せてある。大石はちょいと手に取って名前を読んで、黙って女中の顔を見た。女中はこう云った。
「御飯を上がるのだと申しましたら、それでは待っていると仰しゃって、下にいらっしゃいます」
大石は黙って頷いて飯を食い始めた。食いながら座布団の傍にある東京新聞を拡げて、一面の小説を読む。これは自分が書いているのである。社に出ているうちに校正は自分でして置いて、これだけは毎朝一字残さずに読む。それが非常に早い。それからやはり自分の担当している附録にざっと目を通す。附録は文学欄で填めていて、記者は四五人の外に出でない。書くことは、第一流と云われる二三人の作の批評だけであって、その他の事には殆ど全く容喙しないことになっている。大石自身はその二三人の中の一人なのである。飯が済むと、女中は片手に膳、片手に土瓶を持って起ちながら、こう云った。
「お客様をお通し申しましょうか」
「うむ、来ても好い」
返事はしても、女中の方を見もしない。随分そっけなくして、笑談一つ言わないのに、女中は飽くまで丁寧にしている。それは大石が外の客の倍も附届をするからである。窓掛一件の時亭主が閉口して引っ込んだのも、同じわけで、大石は下宿料をきちんと払う。時々は面倒だから来月分も取って置いてくれいなんぞと云うことさえある。袖浦館の上から下まで、大石の金力に刃向うものはない。それでいて、着物なんぞは随分質素にしている。今着ている銘撰の綿入と、締めている白縮緬のへこ帯とは、相応に新しくはあるが、寝る時もこのまま寝て、洋服に着換えない時には、このままでどこへでも出掛けるのである。
大石が東京新聞を見てしまって、傍に畳ねて置いてある、外の新聞二三枚の文学欄だけを拾読をする処へ、さっきの名刺の客が這入ってきた。二十二三の書生風の男である。縞の綿入に小倉袴を穿いて、羽織は着ていない。名刺には新思潮記者とあったが、実際この頃の真面目な記者には、こういう風なのが多いのである。
「近藤時雄です」
鋭い目の窪んだ、鼻の尖った顔に、無造作な愛敬を湛えて、記者は名告った。
「僕が大石です」
目を挙げて客の顔を見ただけで、新聞は手から置かない。用があるなら、早く言ってしまって帰れとでも云いそうな心持が見える。それでも、近藤の顔に初め見えていた微笑は消えない。主人が新聞を手から置くことを予期しないと見える。そしてあらゆる新聞雑誌に肖像の載せてある大石が、自分で名を名告ったのは、全く無用な事であって、その無用な事をしたのは、特に恩恵を施してくれたのだ位に思っているのかも知れない。
「先生。何かお話は願われますまいか」
「何の話ですか」
新聞がやっと手を離れた。
「現代思想というようなお話が伺われると好いのですが」
「別に何も考えてはいません」
「しかし先生のお作に出ている主人公や何ぞの心持ですな。あれをみんなが色々に論じていますが、先生はどう思っていらっしゃるか分らないのです。そういう事をお話なすって下さると我々青年は為合せなのですが。ほんの片端で宜しいのです。手掛りを与えて下されば宜しいのです」
近藤は頻りに迫っている。女中が又名刺を持って来た。紹介状が添えてある。大石は紹介状の田中亮という署名と、小泉純一持参と書いてある処とを見たきりで、封を切らずに下に置いて、女中に言った。
Table des matières
Dans cette édition
- 01Full text
- 02壱
- 03弐
- 04参
- 05四
- 06五
- 07六
- 08七
- 09八
- 10九
- 11十
- 12十一
- 13十二
- 14十三
- 15十四
- 16十五
- 17十六
- 18十七
- 19十八
- 20十九
- 21二十
- 22二十一
- 23二十二
- 24二十三
- 25二十四
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